滝尻王子社

田辺市中辺路町栗栖川859 (平成26年10月7日)

東経135度30分24.20秒、北緯33度46分21.30秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
6日、熊野古道、滝尻王子から近露王子まで語り部の案内で歩き、近露王子から熊野本宮大社へはバスで行く予定でした。
が、和歌山県には台風18号が接近中、古道歩きは翌日の7日へ、本宮参詣の翌日に歩きました。台風の足は速く、6日の朝は弱い雨が少し残りましたがいい天気になり、7日は朝から快晴。結果論ですが、最初の予定(6日)で歩きかった。

御祭神(主祭神)天照皇大神
     (配祀神)日子日能邇邇藝命・天忍穂耳命・天津日高日子穂々出見命・鵜葺草葺不合命
和歌山県神社庁>滝尻王子十郷神社 より

御由緒
この王子社は岩田川(富田川)と石船川が合流する地点にあり、ここから本宮まで厳しい山道となります。天仁二年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十三日に水を浴びて禊をした後、この王子社に参拝していますが、日記に「初めて御山の内に入る」と書いているように、滝尻からが熊野の霊域とされたのです。承安四年(1174)に藤原経房(つねふさ)がこの王子に参拝した時には、社殿で巫女が里神楽を舞い、建保五年(1217)の後鳥羽上皇と修明門院の参詣の際には、両院が馴子舞いに興じているように、いろいろな芸能が奉納されました。特に著名なのは、後鳥羽上皇が歌人を随行させた時には、この王子社の宿所で歌会を開いたことです。建仁元年(1201)に藤原定家が随行した際に、めいめいが和歌を書いた「熊野懐紙」は1枚も残っていませんが、前年の正治二年(1200)のものは十一名の分が伝来しており、そのすべてが熊野古道館に複製展示してあります。鎌倉末期以降、熊野の御子神五所を祀る五躰王子の一つとされ、室町時代にもそのように呼ばれていますが、三栖から潮見峠越えで栗栖川へ通じる道が多く利用されるようになると衰退しました。明治時代には村内の神社を合祀して十郷神社と呼ばれましたが、現在は滝尻王子宮十郷神社と 称いています。
境内案内 より

滝尻王子社 由来
院政期の熊野参詣日記(中右記・吉記・長秋記・後鳥羽院御幸記)に記される瀧尻王子社で、当社で祓・沐浴・経供養・歌会・里神楽などのほか神託の告げのあったことで名高い。
江戸時代社名を瀧尻五体王子社であったが、明治元年瀧尻王子社と改称された。
同10年6月、村社となる。
同40年4月、幣帛料供進社に指定。
翌41年11月の一村一社の神社合祀令によって、村内の神社(栗栖川の厳島神社・杵荒神社・石船の八柱神社・小皆の竃神社・水上の岩戸別神社・内井川の若宮神社・熊野川の若宮神社・真砂の八幡神社2社・北郡の日吉神社・西谷の大山祇神社)11社を合祀し、社名を十郷神社と改めた。
大正3年2月、会計法適用社に指定。
昭和21年6月、社名を瀧尻王子宮十郷神社と改称した。
同9月、合祀していた11社が分離し旧地に復社した。
この瀧尻王子は、富田川と石船川の合流地点にあり、富田川は阿弥陀如来・石船川は観音菩薩の浄土と念じて水垢離を行うのが貴顕の参拝儀礼である。
天仁2(1109)年、熊野に参詣した藤原宗忠が水垢離の為19回にわたり富田川の渡河を繰り返し、瀧尻王子に参拝した事が残されている。
瀧尻王子の境内は多くの岩石で覆われ、熊野古道は修験道とし、瀧尻王子境内は修験の場であったのであろう。
転在する岩石や洞窟にその跡が残されて居る。中でも奥州藤原氏三代藤原秀衡の夫人が此処て産気つき、人家無きをもってこの岩石の洞窟で男子出産し、熊野に参拝して帰途につき、洞窟に立ち寄れば子供は岩石から滴る乳を飲み生存していた。この子供は藤原家泉三郎であると言はれている。秀衡これに報いて同地に七堂伽藍を造営し、武具等奉納したという。この洞窟を体内くぐりとして観光の的になっている。
尚この納められた武具の中の黒塗り小太刀は、重要文化財として和歌山博物館で管理されている。叉現社殿は天保10(1839)年に建て替えられている。社務所については明治43年建築。
正治2(1200)年、御鳥羽上皇切目王子御歌会の3日後、瀧尻王子で御歌会を催された事は熊野懐紙で残されているが、この歌会の遺跡保存顕彰について大正の初期より各方面から要望されながら実現できなかった。然し時が進むにつれ、構造物の破損・木造物の腐敗が進み、やむを得ず平成5年より寄付報願書で各地にお願い呼びかけ、集まった寄付金を持って全境内改善・腐敗した木造作りの鳥居を石造に改善。社務所の取り壊し、参道外の構造物を 自然石で復旧し、平成8年願い続けてきた御鳥羽上皇歌会の遺跡保存顕彰碑は、島根県人外有志の協力により上皇崩御の地隠岐産の原石を持って歌碑建立念願をかなえる事が出来た。
平成16年7月、熊野古道世界遺産に登録され、古道の玄関口にある瀧尻王子は世界遺産に並ぶ扱いとなり、古道遊覧にこられる観光客の神社参拝者は10万人越えるのでないかと思われる。

熊野古道入口

世界遺産の案内

神社入口

神額

手水石

記念碑

境内

社号標

拝殿

内部

本殿

おもひやるかものうはげのいかならむ しもさへわたる 山河の水


熊野古道を歩く

箸折峠の牛馬童子

牛馬童子
箸折峠の牛馬童子(はしおりとうげのぎゅうばどうじ)は、熊野古道の中辺路(和歌山県田辺市中辺路町近露)にある石像。田辺市指定史跡 (1971年7月26 日指定)。場所は中辺路、箸折峠近くにある。高さ50cm程度の小さな石像。文字通り、牛と馬の2頭の背中の上に跨った像である。
一説には、延喜22年(922年)に熊野行幸を行った花山法皇の旅姿を模して明治時代に作られたとされる。この石像のある箸折峠の由来は、花山法皇が食事のため休憩をした時に、近くの萱を折って箸代わりにしたからといわれている。

近露王子跡

御朱印