中宮(なかみや)神社

田辺市上秋津 (令和4年10月15日)

東経135度25分38.13秒、北緯33度45分17.76秒に鎮座。

この神社は、JR紀勢本線・紀伊新庄駅の北北東4.5km程の辺り、上秋津の街外れに鎮座しております。

御祭神 伊弉冉尊・軻遇突智命

由緒
奈良時代後期、称徳天皇の頃、和気清麻呂卿が飼っていた鷹を弔うため、紀伊、山城、備前それぞれにある鷹尾山(高雄山)にその遺骨を分葬して伽藍を建てたという。その一つが当地の鷹尾山千光寺で、その鎮守の神として山城の愛宕山大権現を勧請したのが、当社の始まりと伝わる。
元は鷹尾山腹の広く平らな土地(寺屋敷と呼ばれる場所の上方)にあったが山崩れに遭って長らく仮宮の姿であったのを、鎌倉時代後期に付近の衣笠城主であった愛洲蔵人允俊秀が麓に遷座したという。衣笠・高雄両山の中間に位置することから、当社は中宮と呼ばれるようになった。
かつては広い社地に美しい神殿を構えていたといわれるが、秀吉が紀州を攻めた天正13(1585)年に兵火に遭い、さらに江戸時代初期元和年間(17世紀前半)に山崩れで社地がながれ、往時の規模を失った。盛大に行われていた野久保山の流鏑馬式は途絶してわずかに馬場檀が残るのみで、獅子舞神楽も永禄年間(17世紀末〜18世紀初)を最後に催されなくなった。
明治時代、政策により各地で神社の統合が進められたが江戸期に当地を出て江川(田辺市)で成功していた那須利兵衛家一族が「たとへ中宮神社は無暴な官吏により毀たるるとも樫の根もとに御幣を祭り祖先の道を忘れじ」と氏子を励まし、そのままこの地に残すことを得て今に至る。
境内由緒書き より。

神社入口

参道

境内

社殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和14年(1939)6月建立)

社殿

社殿縁側の神殿狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

若宮神社


大神宮

護王神社

稲荷神社