八幡神社

田辺市中芳養803 (令和4年10月15日)

東経135度21分30.01秒、北緯33度46分03.40秒に鎮座。

この神社は、JR紀勢本線・芳養駅の北3km程の辺り、中芳養の街外れに鎮座しております。

御祭神 誉田別尊・息長足姫命・玉依姫命・海津命

由緒
社伝によると、陽成天皇(876―884)の御代に山城国石清水より勧請し、以後280余年を経て、後白河法皇御再興されたという。
紀伊続風土記には「文治の頃(1185)年、鎌倉より地頭を置き領地を没収せんとせしかは、石清水の領家へ訴訟す、此時石清水より楠本荘司という者を遣はし領地を守護せしめ、はじめて勧請す」と記される。
古く平安時代からあった芳養荘(石清水八幡宮領)の鎮守として、鎌倉時代の正応2(1289)年2月に創建された由緒ある神社である。
そのため室町時代にも、領主湯川氏も当社に対して田畑5町余と月々の神事料を寄進している。
この時代には、社殿の造営や当社の別当寺をはじめ末寺5ケ所が整えられたことが紀伊続風土記に記されている。
なおまた同紀伊続風土記によれば「本社末社十二社廻廊・鐘楼(中略)神主一人、社僧六人、早乙女七人、神楽男十二人」とあり、社運隆盛であった。
しかしその後、豊臣秀吉の紀州平定による口熊野の合戦の際、戦禍でことごとく焼失した。
しかし再興にあたっては、川辺領々主浅野左衛門佐氏重は、慶長12(1607)年、御供米を寄付され仮殿も氏子によって建てられ、神主をはじめ社僧、神子も整った。
元和5(1619)年、領主安藤帯刀頼次も社領4石を寄進したほか、造営材木も寄進され崇敬された。
その後の領主安藤氏は、和歌山から田辺に帰還される時は、自ら社参するか代参を遣わされる慣例になっていた。
また享保9(1724)年には、境内殺生禁止の証文を下附され、さらに安永8(1779)年には、絵師に命じて絵馬を奉納している。
領主をはじめ多くの人々に崇敬されてきたにもかかわらず、明治元年の神仏分離によって別当寺の撤去や社殿の縮小によって往時の盛観は全く失った。
明治4年、郷社(任田辺県)になったが、明治6年4月に村社(任和歌山県)となった。
社名も芳養八幡宮から八幡神社と改称された。
同10年10月、村内の神社(長屋谷の須佐神、阿坂の八幡神、西野々台の田中神、嶋ノ谷の稲荷神、古屋の皇太神、船山の蒼稲魂神、上芳養中谷の日向神社、同長曽の市杵島神社、同冬木の応仁天皇)を合祀した。
さらに同43年には一村一社の神社合祀令から、上芳養下芝の日向神社を合祀した。
同40年4月に幣帛料供進社に指定。
大正3年2月には、会計法適用社に指定された。
(例祭)
芳養八幡神社の祭礼は、往古八幡大神の勧請を模したものといわれ、馬祭りとしても近在に知られ、流鏑馬、駆け馬は終戦後も絶えることなく奉納されている。
宵宮祭は、芳養浦海岸にて関係者100余名参列し、馬8頭の潮垢離行事がある。
3日当日は、正午頃から神前祭や約200mの馬場に於いて、馬8頭の流鏑馬行事、神輿渡御、子供みこしや馬駆け行事が古式にのっとり齋行される。
特に、馬当屋にては、往古からの封建色の型が今もなおつづいて居る。
例祭は、平成2年4月8日、和歌山県の無形文化財に指定されている。
和歌山県神社庁公式サイト より。

一の鳥居

神額

流鏑馬が行われるという長い参道。

境内入口

神門

拝殿

拝殿前の岡崎型狛犬

拝殿内の神殿狛犬

本殿


琴平神社 厳島神社

八島神社

八島神社の神殿狛犬

高良神社 大神宮神社
稲荷神社 須賀神社

龍神社