野上(のかみ)八幡宮

海草郡紀美野町小畑625 (令和4年10月15日)

東経135度17分50.75秒、北緯34度09分44.67秒に鎮座。

この神社は、紀美野町役場の西1.6km程の辺り、小畑の街中に鎮座しております。

御祭神 誉田別命・息長帯姫命・玉依姫尊

由緒
当八幡宮の由緒は古く、神功皇后は三韓遠征の帰途、誉田皇子(後の応神天皇)と共にこの地に逗留されました。それ故に欽明天皇(550年代)の宣命により、応神天皇の霊を勧請し、八幡宮を建立したと伝えられています。
永延元年(987)石清水八幡宮の別宮となりました。
万寿2年(1025)京都御所からの宣命により、紀伊国3分の1をもって本殿、末社に至るまで19社中門、回廊、神楽殿等22屋を御造営されました。
万寿4年(1027)放生会その他神事一切石清水八幡宮の社例に准じて行うべしとして、石清水から神職葛葉氏を検知職に補任し、塾田210町を以て神領とし、野上庄、現在の四野上(野上町・海南三野上地区)を定め、当宮を中心として荘園統治が行われました。
これより後は、当宮の隆盛は石清水と並び大社の一つとしてた崇められました。
その後幾多の兵乱にも災厄をまぬがれましたが、天文10年(1541)根来の衆徒が突然来襲して、放火略奪を極め、このため社殿・堂社をはじめ財宝文書に至るまで悉く灰燼となり、神事や祭礼も廃絶しました。
その後16年を経て、弘治3年(1557)江州(滋賀県)出身の真賢上人のご尽力により、再建に着手され、本店・若宮社を始め拝殿・武内神社も再建されました。
豊臣秀吉が天下を平定し、社領はすべて没収されましたが、浅野幸長が紀州に封ぜられ慶長6年(1601)に3石の地を社領として寄進し鳥居・神輿も奉納してくれました。
徳川幕府になり、初代紀州藩主となった徳川頼宜が封ぜられてより4年目に当宮に社参され、その後度々参拝され鳥居の再建・絵馬・石灯篭等奉納されました。
当宮氏子出身紀州流土木工法の始祖井澤弥惣兵衛は8代将軍吉宗に重用され、江戸幕府に出仕され、幾多の工事を手掛けてきました。亡くなる2ヵ月前に永代祈祷の布施料として、4石1升3合の田地を買い求め、寄進されました。
明治2年、神仏分離により、当宮の境内から本願寺・神宮寺等が除去されることになりました。
明治45年に氏子内産土神社156社は当宮に合祀されました。
昭和32年より3ヵ年にわたり、解体修理が行われ、また平成5、6年に檜皮の屋根の葺き替え、塗り替えの工事が行われました。
由緒書き より。

野上八幡宮公式サイトはこちら。

参道

神門

境内

拝殿と本殿

拝殿内部

拝殿縁側の木造狛犬


平野今木神社社殿

熊野社

天満社・稲荷社

住吉社

大神宮・春日社

愛宕社

子守社・倉稲魂社