十三神社

海草郡紀美野町野中493 (令和4年10月15日)

東経135度21分14.27秒、北緯34度08分38.34秒に鎮座。

この神社は、紀美野町役場の南東5km程の辺り、美里中学校南東隣に鎮座しております。

御祭神 國常立尊・國狭槌尊・豊雲野尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸導尊・大戸間邊尊・面足尊・惶根尊
    伊弉諾尊・伊弉册尊・天照大日尊・天忍穂耳尊・彦火瓊々杵尊・彦火々出見尊・鸕鷀葺不合尊・大山祇神

由緒
桓武天皇の御宇、延暦3(784)年に神野郷の人々が官許を得て、神代七世の大神、神世五世の大神等を祀らんが為、敷地4,758坪を撰び神社地と為す。
其の当時より爾来、十二社大権現と尊稱されたが、後陽成天皇の天正年間に、伊豫の河野道直・秀道父子が、長曽我部元親と交戦し、軍敗れて伊豫を去り当地神野庄上ヶ井に落着したる時、一羽の靈鳥天翔り、国翔り飛び来りて河野一族の左右を離れず日を経過すれども飛び去らず、道直は、先祖代々伊豫国の一の宮大山祇大神を崇敬し河野家の守護神と仰ぎ奉れることを想い、此の靈鳥は、大山祇の神靈ならんと道直等一族此の大山祇の神靈を祀らんが為、神野庄(上下神野村)の人々と協議し、高野山興山寺の許可を受け十二社大権現の神廟に合祀することとなり、時に天正17年正月26日と伝えられ、以来十三社大権現と稱されたと伝えられる。
しかし平安後期の康治2(1143)年5月25日付の『神野眞國庄絵図』(京都高尾神護寺蔵)には即に十三所大明神と明らかに記され、又安貞2(1228)年の高野山衆徒置文に、「庄内神社十三所」とあり早くから荘内の鎮守社と認められている。
このことから、延暦三年の創建以来ずっと十三所大明神を産土神として信仰されていたもので、天正17年になって13体の神様の内、1柱が大山祇神と入れ替えたと思われる。
和歌山県神社庁公式サイト より。

参道入口

神額

参道

手水舎と社号標

拝殿

中門

本殿

本殿縁側の木造狛犬

八幡神社

丹生神社

聖神社・皇太神宮・熊野神社


眼下の貴志川