富山縣護国神社

富山市磯部町1-1(平成21年8月18日)

東経137度12分20.35秒、北緯36度41分12.48秒に鎮座。

【神社情報・ナッキーさんより】
 この社は神通川右岸、富山城址公園の南西約800mに鎮座しています。

 御祭神:幾多の戦役で國の為に戰歿された富山県出身の方々の英靈
 祭礼日:初詣・1月1日〜3日まで、節分祭・2月3日、紀元祭・2月11日、春季例大祭・4月25日、神樂の夕べ・7月31日、万灯みたままつり・8月1日、秋季例大祭・10月5日、どんぐり祭り・10月中旬〜11月初旬、天長祭・12月23日
 境内社:富山縣鎭靈神社
 由緒:この磯部の地は、慶長三年、佐々成政が別園を築き、休憩所を建てたと云はれ、遥か東南に御鎮座されてゐた樫葉神明社にたびたび参拝されたと云ふ由緒ある所ですが、ここに明治四十五年九月二十五日、富山縣會に於て、富山縣指令社第七三六号に依つて「富山縣招魂社」として創立認可され、時の縣知事濱田恒之助が建設委員長となり、翌大正二年八月、神明造の本殿、拜殿、神饌所手水舎等の竣工をみて御鎮座されたものです。
その後内務省、護國神社令により昭和十四年四月一日「富山縣護國神社」と改稱し、間もなく奉賛會が結成され、縣民あげて奉賛されてきました。
しかし、昭和二十年八月一日、米軍の空襲により富山市を中心に火の海と化し當神社も手水舎を残して全て焼失してしまつたものです。その後、昭和二十二年四月十三日、富山縣鎮靈神社と改稱、同時に奉賛會が結成され、同年十月二十一日仮社殿竣工、昭和二十六年十月二十四日、富山縣護國神社と復稱、翌二十七年十月二十六日富山縣護國神社奉賛會を結成するに至り、さらに焼失した御社殿を復興するため、昭和二十八年、富山縣護國神社建設委員會が結成され、昭和二十九年十月二十日、現在の社殿の竣工をみたのです。
 その後、昭和五十年八月一日、終戰三十周年記念事業として、戰災殉難者、公務殉職者、縣功労者の御靈を祀る富山縣鎭靈神社を御造営し、さらに、昭和五十七年十月御創建七十周年記念事業として、新社務所、屋外便所、南玉垣、南鳥居等の竣工をみました。又、平成四年十月御創建八十周年記念事業として大拜殿、北・西側の玉垣造成をなし、平成七年八月、大東亜戰争終戰五十周年記念として臨時奉幣大祭を斎行。
併せて遺芳館を建設し、更に、平成十四年十月四日、御創建九十周年記念事業として本殿大修復を終へ正遷座祭を斎行し現在に及んでゐます。
(「富山縣護国神社公式サイト」より)

社号標 入口の一の神明鳥居
手水舎
境内の様子居
境内中央に立つ二の明神鳥居
大拜殿外観と大拜殿破風下の様子
大拜殿正面入口
大拜殿内の様子
祈祷殿正面
境内社:富山縣鎭靈神社
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