気多(けた)神社

高岡市伏木一宮字大平2063(平成18年11月25日)

 この神社はJR伏木駅の北西約1.5kmに鎮座しています。国道415号線脇に建つ社号標から約600mの長い参道が続きます。一般道と併用している参道から離れ、緩やかな坂道を登ると、社務所脇に境内入口への階段が続きます。階段上は緩い坂道となり沢山の奉納鳥居が建ち並んでいます。境内右側には、「かたかごの丘」という苔と木々に覆われた場所があり、越中国総社跡の伝承地となっていす。境内中央奥には普通の神社と全く違う造りの、横に広い拝殿が建ち、その後に重要文化財の永禄年間(1558〜 1570)に再建された重厚で荘厳な三間社流造の本殿が建っています。境内左には国司として越中に赴任した大伴家持を祀る境内社・大伴神社が鎮座しています。家持の歿後1200年に当たる昭和60年に、地元の有志による大伴家持卿顕彰会によって創建されたもので、家持には遺骨・遺品が遺されていないため、生誕の地である奈良、越中国庁跡、越中国守館跡、最期の地である多賀城、遺骨が流された地である隠岐の5か所の土を壺に入れたものを御神体としているのだそうです。二上山の東麓鎮座という恵まれた立地条件であるため、非常に落ち着いた雰囲気で、深い杜の中を散策するだけでもその幽幻さに触れられ、充分癒しの効果はあると思われます。

 御祭神:大己貴命、奴奈加波比賣命、相殿:菊理姫命、事代主命
 由緒:社伝によると、天平4年(732)に越中国一宮・気多大社から越中国府の近くに勧請を受けて創建され、越中国から能登国を分立するにあたり、越中国一宮・気多神社となりました。それより以前の養老2年(718)に行基により創建されたとする伝承もあります。神亀二年聖武天皇から神領の寄進をうけ、延喜式では名神大社とされていますが、当社ではなく射水神社(当時は現在の高岡市二上にあった)を名神大社とする写本もあるようです。白山比盗_社の社伝『白山記』には、二上(射水神社)と新気多(気多神社)が勢力争いをし、新気多が勝って一宮となったという記述もあります。越中国司大伴家持も厚く崇敬し、当時は社殿も広壮だったといいます。その後木曽義仲や天文年間(1532〜 1555)には上杉勢の兵火で社殿を焼失し、別当僧宥応が小祠を建て祭祀をつづけていましたが、天保2年(1645)前田利常公が社殿を再建、社領を寄進しその祈願所としました。明治6年には縣社に列しています。本殿は重要文化財指定、にらみ獅子は市指定無形民俗文化財となっています。
 例祭:4月18日
 因みに越中には、一宮と自称する神社が四社ありますが、国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだといわれ、他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社です。

国道415号線脇に建つ社号標
「縣社 気多神社」
住宅地の中の参道に建つ社号標
「越中一宮鎮座 大伴神社」
本格的な社地内の参道は階段です。 参道の一の靖国鳥居
参道の様子 もうすぐ境内です
境内に建つ社号標
「越中一宮 縣社 気多神社」
越中総社跡伝承地
「かたかごの丘」
昭和8年生まれの岡崎現代型狛犬
(昭和8年4月建立)
普通の神社と全く違う造りの、横に広い拝殿
左右は片拝殿ではなく、渡り廊下風にできています。
拝殿内の様子、本殿正面 境内の様子

(境内案内より転載)
境内社・大伴神社入口 境内社・大伴神社社殿
昭和60年生まれの鈴しょうわ狛犬
(昭和60年4月吉日建立)
昭和60年生まれのブロンズ狛犬
何処か剽軽な顔つきで、吽には角が付いています。
鬣の渦巻きも、バラのお花のネックレスのようで可愛いですね。
(昭和60年春建立)
越中三賦象型石
越中を代表する「二上山」「布施の水海」「立山」の景観を表したものだそうです。