井波八幡宮

南砺市松島3053(平成21年5月3日)

東経136度58分34.52秒、北緯36度33分23.42秒に鎮座。

 この神社は井波城本丸跡に鎮座しています。井波城は「礪波城」「瑞泉寺城」ともいい、八乙女山の裾(標高143m)に築かれた平山城です。普通のお城と異なるのは、ここが越中一向一揆の総本山・瑞泉寺が築いた一向一揆宗徒の拠点となった城郭伽藍だったという点です。
 瑞泉寺3代蓮乗(本願寺8世蓮如の次男)の時代は、土豪や武士団との抗争が激しく、文明16年(1484)頃、本願寺は護法のため瑞泉寺の旧地に塁濠を築き、越中一向一揆の拠点とする城廊を構え井波城と称しました。天正9年(1581)、瑞泉寺7代顕秀のときに富山城主・佐々成政と戦い、堂舎・町屋ことごとく兵火に罹り落城しました。佐々成政は、井波城を大改修して家臣・前野小兵衛勝長を守将としましたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による越中・佐々征伐のとき、金沢城主・前田利家に攻められ落城しました。井波城は前田氏の持城となり、やがて廃城となりました。
 現在、再建された瑞泉寺の東側にある井波八幡宮が本丸跡、その東側庭園のある臼浪水があり、更にその東側の招魂社の社殿が建つ古城公園が二の丸跡で、綿貫民輔衆院議員宅が三の丸跡となっています。
(南砺市教育委員会・現地案内板より)
 昔の雰囲気が残る町並みを通り過ぎ、瑞泉寺の北を右折すると神社参道入口となる緩い石段があり、もうここから巨樹の茂る豊かな鎮守の杜が良く見えてきます。境内正面には千鳥破風の付けられた大きな拝殿が見え、参道途中には狛犬立像が支える変わった燈籠や非常に出来の良い狛犬も見ることが出来ます。大きな本殿は石垣の上に建立され、本丸跡南西角には蚕堂、反対側には神明宮が祀られ、御神木の大杉を始めとして何本もの大きな杉の木が聳える様は、この地の歴史の古さを物語っています。
 境内に立っていると、神寂びた雰囲気の中に、「神域」の清々しさを感じとることが出来る落ち着いた雰囲気の神社でした。

 御祭神:応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
 祭礼日:5月3日、10月3日
 境内社:蚕堂、神明宮
 由緒:延喜式内の荊波神社に充てられるも詳かでない。
 明徳4年(1393)山城・石清水八幡宮を勧請すという。
 江戸時代には藩主前田氏の崇敬あり。又、近郷四十八ヶ村の総社として崇敬された。
 明治18年郷社に列す。
(「神社名鑑」より)
 5月3日に執り行われる春季例大祭・よいやさ祭りは、天保4年(1833)に始まったとされ、京都・伏見稲荷大社の大祭の形式を伝えています。男衆が「よいやさ、よいやさ」という勇ましい掛け声とともに四角屋根の「一の輿」、八角屋根の「二の輿」、六角屋根の「三の輿」の計3基の大神輿を担ぎます。大神輿は3基の子供神輿とともに1日かけて井波地域中心部を回り、獅子舞と屋体も巡行しています。

社頭
境内入口
境内の様子
境内に奉納されている狛犬立像が支える変わった燈籠
参道脇、明治17年生まれの狛犬
阿は宝珠を付け、吽は長い角を付けています。威厳に満ちた顔つきで、ゴツゴツした体つきや苔が付いた様子が、余計に貫禄を感じさせます。鬣や尾の彫りが深く装飾性に富む良い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治17年(1884)4月建立)
拝殿
本殿

井波城本丸跡南西角の蚕堂鞘堂
「こがいさま」とよんでいる蚕の霊を祀るために社殿を造営したものです。
蚕堂社殿
文久元年(1861)に創建された蚕堂の社殿は、井波の宮大工である松井角平が建造しました。小さなお堂ですが、見事な木組みと細工が施され、随所に井波大工の技が見受けられます。
蚕堂向拝彫刻
蚕堂木鼻・象
蚕堂脇障子
井波城土塁上に造られた末社跡?
本殿左側に祀られている境内社:神明宮
末社 御神木の大杉
樹高・36m、目通り幹囲・5.9m
社務所兼綿貫邸と「綿貫翁」 銅像
蛇足ですが、この社は元衆議院議長 現国民新党代表・綿貫民輔氏が神主を勤めるお社です。

臼浪水
臼浪水は、明徳元年(1390)そのころ杉谷の山里に住んでいた綽如上人が、京都へ向かう途中、乗っていた馬が足で地面をかいたところ、そこから清水が湧きでた跡と伝えられています。綽如上人は、この不思議さに感激しこの場所にお寺を建てました。後の瑞泉寺です。臼浪水は「馬見井」ともいわれています。
臼浪水佛堂
明治13年(1880)に再建されましたが、老朽化のため平成15年に取り壊し、仏堂として新築されました。