雄山神社前立社壇

中新川郡立山町岩峅寺1 (平成21年6月8日)(令和元年8月21日再訪)

東経137度19分04.23秒、北緯36度36分16.54秒に鎮座。

【神社情報・Rumarin&Saiseiさんより】
岩峅寺駅の西300メートル、富山市から県道35号線で常願寺川(立山橋)を渡り、すぐ右折した所にあります。
この神社は日本三霊山のひとつといわれる立山を神体とし伊邪那岐神、天手力雄神の二柱を祀っています。この前立社壇と県道6号を南東へ10kmほど行った所にある中宮祈願殿、立山山頂にある峰本社の三社をあわせて宗教法人雄山神社となっています。
式内社、旧国幣小社で越中国一宮とされています。
表神門をくぐると左手に社殿があります。細長く大きい拝殿の中に入ると賽銭箱の両横に狛犬がいます。この狛犬は元和年代(1615〜1623)に加賀藩二代目藩主前田利長の正室である玉泉院が寄進したと思われるとのことで、町指定文化財になっています。(狛犬は自由に触れることができます)
富山県内の狛犬の中では最古級なのではないでしょうか?
茂みや堀でうまく撮れませんでしたが、源頼朝や前田利家も改修造営しているここの本殿は北陸最大だという巨大なもので、国の重要文化財に指定されています。

御祭神 伊邪那岐之神・天之手力男神
御由緒
伊邪那岐之神は天地開闢の初祖神の詔を奉じて修理固成の天業に就かせ給ひ皇土群品の祖現世司命の神に坐します。
天之手力男神は皇國肇造に當り天の岩戸を開きて、皇祖の御稜威を光被せしめ給ひ天業翼賛に神功を顕し給へる神に坐します。
抑も本社の鎮座は悠遠にして詳かならずと雖も社傳に依れば文武天皇の御宇大寶元年越中守佐伯有頼神教を蒙りて立山を開き社殿を創立せりと傳ふ。
神階は清和天皇貞観五年九月正五位上を、宇多天王寛平元年八月従四位下を授けられ給ひ延喜の舊社にして世々領主武将の尊崇篤く多くの社領社僧を有し規模宏大越中随一の大社たり。又日本三霊山の一として崇敬者全國に洽く古来越中にては男子十五歳にして立山に登拝せざる者は男子の數に入らずとの傳統的信仰有り夏季登拝する例とせり。
畏くも、聖上陛下大正十四年新年の御歌に「立山の空にそびゆるををしさに、ならえとぞ思ふ御代の姿も」と詠ませ給ひてより神威彌々四表に輝き給ふ。明治六年縣社に、昭和十五年十一月國幣小社に列せられ給へり。
當社神殿は建久年中源頼朝の創建にかかり其後足利義稙・佐々成政造営せるものにして明治三十九年國寶建造物に指定せらる。
境内由緒書より。全文や境内案内はこちら。

雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社である。
霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇や後醍醐天皇の勅願所でもあった。旧称立山権現・雄山権現。

雄山神社の三社
峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。
岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。
峰本社、祈願殿、前立社壇の三社は三位一体の性格を持っているため、どの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月〜9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

社頭 明神鳥居

石段の参道の様子
参道の様子 社号標
「國幣小社 雄山神社」

参道と表神門

拝殿

拝殿内の狛犬。拡大写真はこちら。

元和年代(1615〜1623)

拝殿内

本殿上部

本殿下部

境内社:(左から)八幡宮、刀尾神社、稲荷神社

拝殿正面から参道、表神門、社務所

東(裏)神門

東(裏)鳥居