雄山神社中宮祈願殿

中新川郡立山町芦峅寺 (平成21年6月8日)

東経137度23分44.4秒、北緯36度34分48.4秒に鎮座。

【神社情報・Rumarin&Saiseiさんより】
県道6号を立山駅方面へ進むと立山博物館のすぐ手前、左手に道に面して入り口があります。前立社壇からは10kmほどです。この神社は前立社壇と同じく日本三霊山のひとつといわれる立山を神体とし伊邪那岐命、天手力雄命の二柱を祀っていて、式内社、旧国幣小社で越中国一宮とされています。

広い境内には樹木がくまなく生い茂っていて、樹齢数百年と思われる大樹もたくさんあります。その中の参道を歩いていくと、とても良い気分になり、ここが神域であることを実感します。

途中で二手にわかれる参道を右に行くと立山若宮があり、左に行くと長くまっすぐな道が続き、つきあたりには末社の立山大宮がありますが、その途中の右手に祈願殿があります。(その他にも参道沿いにはいくつかの境内社があります。)祈願殿の拝殿は、戸を開けて自由に入ることができます。中には様々な絵馬や、両方とも背中に子狛犬を乗せた狛犬などがあります。

前立社壇まで行った際には少し足をのばしてこの中宮祈願殿を訪れることをお勧めします。

由緒書
祭神 西本殿、立山大宮  伊邪那岐命
   東本殿 立山若宮  天手力雄命
   別宮  立山開山堂 佐伯有頼公

當神社は日本三霊山立山を神山と仰ぐ雄山神社中宮にして、延喜式内国幣小社であり鎌倉時代神道集によれば越中国一の宮と称せらる。鎌倉幕府室町幕府金沢藩主の特別崇敬保護を享け、中宮寺塔中の衆徒社任三十八戸軒を列ねて奉仕し全国に立山の霊験を布教せり。
総拝殿を祈願所と称し境内二万余坪あり樹林は富山県天然記念物に指定せらる。
境内に於て草木を採り、殺生を行い、無禮を為すことを固く禁制す。
境内由緒書より。全文はこちら。

雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社である。
霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇や後醍醐天皇の勅願所でもあった。旧称立山権現・雄山権現。

雄山神社の三社
峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。
岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。
峰本社、祈願殿、前立社壇の三社は三位一体の性格を持っているため、どの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月〜9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

鳥居

参道

参道の狛犬

御廟(立山開山佐伯有頼廟)、奥に祈願殿。

有頼が父の白鷹を父に無断で持ち出し狩をしていると、白鷹は急に現れた熊に驚き逃げてしまう。有頼が矢で熊を射ると、熊は血を流しながら逃げていった。洞穴の中へと続く血の後を見つけ、弓を構えて中を伺うと、そこに居たのは矢を射立てられた阿弥陀如来であった。嘆き悲しむ有頼に向け阿弥陀如来は、白鷹もまた立山の神の化身で有頼を導くための使いであり、僧になりこの山を開くよう告げた。立山の為に生涯を尽くすことを誓った有頼は直ちに下山し父頼若にこの事を告げると、出家し名を慈興に改め、立山開山の為に尽力した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

立山玉殿岩窟において霊示を受け立山を開山し、生涯を立山信仰の弘宣に捧げられた佐伯有頼公(出家して慈興と号す)が、天平宝字三年六月七日八十三歳で入定された地と伝えられる。

祈願殿(拝殿)

拝殿内

拝殿内の狛犬

祈願殿本殿

立山大宮

御祭神 立山権現伊邪那岐大神
 相殿 第四十二代文武天皇
佐伯宿祢有若公
立山権現麓芦峅中宮の末社にして、■堂と竝び立山信仰の中心社堂で本殿。大拝殿と偉容を誇っていたが明治初年 山中よりの落石の災害に合い両殿共に破壊される。原文はこちら。

立山若宮

立山町指定建造物
若宮社殿
 文武天皇の大宝元年(701)越中国司佐伯宿祢有若卿の嫡男有頼少年が白鷹と熊に導かれ霊峰立山を開かれた。勅命により山麓芦峅の地に立山雄山神を奉斎する根本中宮を始め、壮大なる神社仏閣が建立された。
 若宮社殿は文治元年(1185)に鎌倉幕府が大内冠者惟義に命じて造営したと伝えられている。現在、天正十六年(1588)三月吉日大和国宇陀郡平臣加藤清○の棟札が残されているので、この当時に修理を加えたと考えられている。間口2.73m、奥行4.69mの一間社流造で、明治初年に本殿の老朽化が著しく自立が危うくなったため、本殿の外側に全体を覆う軒支柱が造られた。また、現在は銅版葺きであるが、当所は柿葺きであった。
 若宮社殿には佐伯氏の祖稲背入彦命・佐伯宿祢有頼命が祀られており、足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬を受け、以来戦国武将名門の尊崇厚く、大願成就、必勝不敗、災難除けの神として信仰されている。
立山町教育委員会

御祭神 刀尾天神(天手力雄神)・稲背入彦命・佐伯有頼命
古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神二十一末社の総本宮として厚く崇敬されてまいり、殊に足利将軍義植公の祈願奉幣の社として尊敬を受け、以来戦国武将江戸時代清里武門より敬信の誠を捧げられ、大願成就必勝不敗災難除けの神として信仰される。
また霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝するを例とした。
境内由緒書より。原文はこちら。

立山開山堂

立山の御開祖越中国司佐伯有若卿の嫡男佐伯有頼公を祭る。

境内社:神明社 境内社:治国社

石灯籠と社叢

手水舎

謎の像