新治(にいはる)神社

黒部市生地716 (平成26年9月21日)

東経137度25分06.63秒、北緯36度53分34.86秒に鎮座。

この神社は、あいの風とやま鉄道線・生地駅の南西1.5km程の辺り、生地(いくじ)の街中に鎮座しております。

御祭神 譽田別尊・建御名方命・少彦名命

由緒
本社の創立はいつ頃か詳らかではない。旧記等によると、およそ天智天皇(西暦662年)の頃と思われる。祭神は譽田別尊・建御名方命・少彦名命の三神を合祀した国史現在社である。(三大実録には元慶7年12月詔して越中国正六位上新治神社に従五以下を授くとある。)
元は新治神社と称したが、中古より八幡大菩薩または新治神社八幡宮とも称えた。そして国家に大事のある時には、勅使の奉幣や祈願がなされたことも多かった。
すなわち、大宝3年高向朝神や天武天皇の皇子経営王奉幣して、宝祚無窮国家泰平の祈願をし、慶雲2年甲辰人麿勅使として来り、忠孝の二字の書を奉った。
また養老2年に僧行基、天平20年に国守大伴家持、嘉祥2年に、国守和気朝臣、仁寿3年に国守春日朝臣、天徳元年に越中守尹生がそれぞれ勅使として奉幣した。
久寿元年8月10日海嘯(かいしょう)によって本町は全く陥落して海と化し、壮麗な社殿や石造りの大華表が怒濤に巻き込まれるなどして、その社宝などはすべて流出した。
海嘯以後本町の復活や社殿の再建などに長年月かかったので、奉幣は無くなっていたようである。
後醍醐天皇の皇子宗良親王が征東された際には参詣され、自筆の新撰和歌集を奉納された。
明応元年に足利義植が本社に奉幣して戦勝を祈り、また「くじ」で方向を定め、西奔して大内義興のところに寄ったと言う。
永正5年7月に将軍足利義植が本社に社領二百石を寄進し、また高倉主税藤原盛央を神主とした。
天文23年上杉謙信攻略の際、宝物や旧記すべて灰燼となった。
元亀3年に上杉謙信が本社の造営費を納め、また鏡一面と幣帛を奉った。そして四百石の邑を社領とした。
天正13年に佐々成政がその社領を納めたという。したがって古来社殿は壮麗、祭典も盛大に行われて来たが、この後しばしば火災や水害のため、旧態は大いに変じ、官民の信仰も昔のようではなくなったと言われる。
寛政年中名工の建設にかかる宮殿は元治の大火によって、また灰燼に帰した。
現在の本殿は慶応2年、拝殿は明治33年の建立である。なお伊奘諾命・伊弉冉命・大加牟豆身命・軻遇突智命・十握剣の由緒は不詳。従来生地町大字山生地新村529番地字狐塚鎮座の村社五社之社の祭神であったが、維持出来にくいので、大正元年9月18日合祀と跡地の譲与の許可を得、同年9月28日合祀をした。
約450年以上の伝統である松明の行事は、10月26日の夜から松明(直径1尺、長さ10尺余)が参道で焚かれ、日が変わる頃、神輿を担いだ壮寿(42歳の厄年)の人たちが火の中を一気に駆け抜け、本殿に還御される神事である。
新治神社公式サイト より。

参道入口

一の鳥居

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

二の鳥居

拝殿

本殿覆屋


馬神