鳥取市鹿野町鹿野1517(平成21年7月28日)
東経134度04分12.47秒、北緯35度27分05.51秒に鎮座。
この神社は鹿野中学校の南約600mに鎮座しています。参道の入口には動物除けの電気柵が張られ、参拝時にはこれを一旦外してからでないと神社には行けません。入口から緩い坂を上がったところに建っている鳥居を潜ると、美しい自然林が織りなす変化に富んだ参道となり、奥に行くに従い森は深くなり、木の根を跨ぎながらの苔の絨毯状態の参道が約200m続きます。境内はやや広く明るく、妻入りの赤い屋根の拝殿と一間社流造りの本殿が、厳かな雰囲気の中に建立されていました。
入口の電気柵にはビックリしましたが、参道の雰囲気のとても良い、気持ちの良い神社でした。
御祭神:綿津見神他三神
祭礼日:10月20日
由緒:創建の年代は不詳です。往時の社殿は壮麗で、歌道に名声の高かった和泉式部は、妊娠した際この神社で17日間祈願し、参道の西側にある井戸の水を汲んで小式部内侍を産んだと伝えられています。
その後、亀井茲矩(鹿野城主)が兵主源六の金剛城を焼討ちした際に社殿が類焼し、往時の壮麗な社殿を偲ぶ縁はありません。江戸時代には亀井家や池田家より崇敬されていました。
この社縁の和泉式部は「和泉式部日記」で有名な平安時代の女流歌人ですが、その子・小式部内侍も又、一条天皇の中宮・彰子に仕え、幼少時から才気を謳われた歌人です。藤原定頼との歌をめぐるエピソードは有名で、多くの説話集に収められていますが、若くして逝去しました。
和泉式部 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな 小倉百人一首56番
小式部内侍 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 小倉百人一首60番
社頭 参道の入口には動物除けの電気柵が張られ、参拝時にはこれを一旦外してからでないと神社には行けません。 |
入口から緩い坂を上がったところに建っている明神鳥居 |
ここから参道は約200m程続きます。 日本らしい自然の風景そのものの、美しい自然林が織りなす変化に富んだ参道は、奥に行くに従いフカフカの苔の絨毯となります。木々の緑も深まり、木の根の浮き出た薄暗い道を歩いていると、まるで宮崎ワールドの世界に迷い込んだような錯覚を覚えました。 |
境内入口 |
妻入りの拝殿 |
本殿脇にいる天保12年生まれの出雲丹後狛犬 ずっと屋根のしたにいる所為でしょうか? 江戸時代の出雲丹後にしては、損傷もなく完全な形で残っています。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(天保12年(1841)8月吉日建立) |
一間社流造りの本殿 |
拝殿前から境内を振り返る |