鳥取東照宮(旧称樗谿(おうちだに)神社)

鳥取市上町87(平成21年8月1日)

東経134度14分49.8秒、北緯35度29分47.42秒に鎮座。

 この神社は鳥取駅の北東、市街地が切れ山間に入った辺りに鎮座しています。常緑樹が生い茂った付近一帯は樗谿公園として整備され、参道手前には鳥取市歴史博物館も建設されています。早春は「梅鯉庵」の梅の花、初夏にはホタルの名所として観光客も多く訪れるそうですが、この日も神社への参拝者は私達だけでしたが、駐車場には沢山の自家用車が並んでいました。
 参道入口には木製両部鳥居がたち、駐車場を経て、左側に神社への本当の入口となる神門が建立されています。神門を入ると石畳の参道左側には鳥取県神社庁があり、右側は樗谿公園となっており、綺麗に整備された参道から見る常緑樹が生い茂った景色は、とても気持ちを落ち着かせてくれました。参道突き当たり手前には市街地では珍しいホタルの名所となっている神池があり、手水舎を経て、左側に重厚な随神門が建立されていますが、公園に散策に来てここから手を合わせる方もいるのでしょうか、珍しく随神門に賽銭箱が置かれています。
 随神門内にはいると建ち並んだ燈籠の先に境内入口が見え、周囲を深い森に囲まれた境内正面には、国指定重要文化財の拝殿、幣殿、唐門、本殿が建立されています。現在は重要文化財として国が維持管理をしているのでしょうが、徳川幕府が滅び、神仏分離が行われた明治維新後、氏子を持つことの無かったこの神社の維持は想像を絶するほど大変だったと思われ、その間の関係各位のご苦心の程が窺い知れる、素晴らしい社殿と佇まいの神社でした。

 御祭神:東照大権現、配神:池田忠継・忠雄・光仲・慶徳公
 祭礼日:10月第3土・日曜日(権現まつり)
 由緒:慶安3年(1650)、鳥取藩初代藩主・池田光仲公により日光東照宮を勧請して創建されました。
 光仲公は僅か3歳で藩主となり、慶安元年12月(1649)に藩主となって16年目にして初のお国入りを果たしましたが、曽祖父である徳川家康公(東照大権現)を祀るため、又、藩主としての威厳を示すため、幕府に願い出て鳥取城下への東照宮勧進を許可されたのです。古くは因幡の東照宮といわれ、江戸時代初期の神社建築としては屈指のもので、本殿、拝殿、幣殿、唐門は、国指定重要文化財となっています。本殿扉上の桁には鷹の彫刻があり、左甚五郎の作と伝えられています。
 明治7年(1874)樗谿神社に改称され、池田忠継・忠雄・光仲公が合祀され、更に明治11年(1878)最後の藩主・慶徳公が合祀されました。
 県無形民俗文化財である麒麟獅子舞は、樗谿神社を建立した際に、権現祭の神幸行列で行われたのが始まりといわれています。所謂獅子舞のかわりとして舞われる因幡独特のもので、中国で考案された麒麟という架空の動物は「善政を行う王者の下、麒麟が現れる」という故事に則っています。

 慶安3年(1650年)に因幡東照宮が完成した。明治7年(1874年)3月、樗谿神社に改称、池田忠継(光仲の伯父)・忠雄(光仲の父)・光仲を合祀、同時に県社に列格する。さらに明治11年(1878年)、最後の藩主・慶徳を合祀する。平成23年(2011年)10月、本来の名称が「因幡東照宮」であったとの理由から鳥取東照宮に改称した。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、「中村忠文のページ」参照)

参道入口の木製両部鳥居 鳥居に架かる社額
神門
参道の様子
参道左側には鳥取県神社庁があり、右側は樗谿公園となっています。
手水舎 ホタルの名所となっている神池
随神門
境内へと続く石畳の参道
境内入口
重要文化財・柿葺屋根の拝殿
重要文化財・唐門
国指定重要文化財・本殿
江戸時代初期の造立で、入母屋造桧皮葦 正面3間、側面2間の、簡素で気品がある社殿です。桁にある鷹の彫刻は、左甚五郎の作と伝えられています。
「重要文化財・本殿、唐門、拝殿及び幣殿」案内と本殿拡大写真はこちらで
石碑 石碑
境内に聳える御神木
鎮守の杜の様子