鳥取県

 鳥取県は、日本列島本島の西端に位置する中国地方の北東部に位置し、東西にやや細長い県です。北は日本海に面し、鳥取砂丘をはじめとする白砂青松の海岸線が続き、南には、中国地方の最高峰・大山をはじめ、中国山地の山々が連なっています。三つの河川の流域に平野が形成され、それぞれ鳥取市、倉吉市、米子市が流域の中心都市として発達しています。気候は比較的温暖で、春から秋は好天が多く、冬には降雪もあるなど、自然災害が少なく、気候条件に恵まれています。
 古代の鳥取県は、砂丘地帯や大山山麓などに縄文遺跡や弥生遺跡が分布し、古墳も数多く発見されています。また、銅鐸と銅剣がともに出土しており、これは、古くから大陸文化の流入があり、たたら製鉄などの高い技術に裏付けられた生産力の充実などに恵まれていたためと思われます。大化の改新後は、因幡・伯耆の二国が置かれ、万葉歌人・大伴家持も因幡国司に任ぜられています。 奈良時代中期には東大寺領高庭庄が設けられたのをはじめとして、平安時代 になると、荘園が各地に設けられました。平安時代末の源平争乱期には、伯耆国を中心に在地武士の間に激戦があり、14世紀の建武の新政の際には、伯耆の豪族名和長年が活躍しました。後醍醐天皇が隠岐島 に流された時に味方した話は有名です。室町時代になると、山名氏が因幡・伯耆両国を守護として支配しました。応仁の乱後は、尼子氏や毛利氏などの支配を経て、豊臣秀吉の支配下におかれました。関が原の戦の後、1632年には池田光仲がほぼ鳥取県全体を支配するようになり、 以後、鳥取藩は池田氏の手によって治められました。明治になって、元の藩主池田慶徳が藩知事となり、明治4年因幡・伯耆両国と隠岐国が鳥取県となりました。その後、明治9年には、いったん島根県に併合されましたが、地元の士族を中心とした熱心な再置運動が実り、明治14年には、隠岐島を島根県に残して再び鳥取県として分離され現在に至っています。
 日本最初の歴史書「古事記」には、大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという一節があります。当時、鳥取平野は、沼や沢の多い湿地帯で、水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らす狩猟民族が住んでおり、これらの人々が、大和政権ができてからその支配体系に組み込まれ、「鳥取部」として従属。そこからこの地の呼び名「鳥取県」が生まれたとされています。(鳥取県庁HPより)
    

大神山神社奥宮の出雲丹後狛犬(寛政8年(1796)4月建立)