小網神社

中央区日本橋小網町16-23 (平成26年11月28日)

東経139度47分01.28秒、北緯35度40分51.19秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
都営地下鉄浅草線、東京メトロ日比谷線「人形町」駅より徒歩数分の所に鎮座しています。11月28 日「どぶろく祭」の当日に参拝しました。無形文化財「郷神楽舞」は12時半から、私は13時44分に着きました。遅刻、舞は終わっていました。「どぶろく」は飲むことが出来ました。

御祭神 倉稲魂命(稲荷大神)・市杵島姫命(弁財天)・福禄寿

御由緒
武蔵国豊島郡入江のあたりに万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。開基の年代は明らかではありませんが、恵心僧都の歴史を考えれば、今からおよそ一千年前ということになります。文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕にたち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して 日夜祈願をつづけました。すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。領主・太田持資公(道灌)も、この御神徳を聞き、折に触れて、当神社を詣でました。そして土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。慶長年間(西暦1596〜1615年)には、これらにちなみ周辺地域が小網町と名づけられ、当神社を氏神と崇めました。明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、小網稲荷神社として明治6年7月5日、村社に指定されました。現社殿・神楽殿は、大正期の明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門により、昭和4年に造営されました。
その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築となっています。以下省略
当神社公式サイト より

弁財天御由緒
当神社の弁財天(市杵島比賣神)は、同じ境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる万福寿寺に安置されていた弁財天です。明治初年、神仏分離令の施行後、当神社と寺院は分離しましたが、その後、計らずも寺院は廃絶したため、明治2年(西暦1869年)、当神社に遷座されました。同寺にちなみ、また像がお舟に乗られているため、万福舟乗弁財天と称しております毎年10月28日は万福舟乗弁財天大祭が行われ、多くの参拝者で賑わいます。当日、社頭では、くじを授与し、お供え物などをお授けいたしております(10月28 日が土曜 日となった場合には27日、日曜日の際は29日に移動します)。

神社全景。むなしく静まりかえる神楽殿。

鳥居

神額

鈴は付けているが耳長でもあり太めでドッシリとした狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和4年(1929)9月建立)

手水舎

注連縄等

昇り龍

降り龍

小網神社は、埋め立てられた東堀留川の河岸地にあり、現在の社殿(来戸注・尾州桧造とのこと)等は、大震災による焼失後、昭和4年に造営されています。社殿は神社建築として伝統的な意匠を備え、向拝には、龍、獅子、ばく、鳳凰、波等の彫刻が、優れた技法によりほどこされています。棟梁 や氏子名などを記す棟札や設計図面等の資料とともに、区内に現存する数少ない木造の神社建築として貴重なものです。中央区文化財

内部

養老の滝

網福禄寿

どぶろくの授与
御朱印