鬼子母神

豊島区雑司が谷3(平成17年1月22日)

この鬼子母神は法明寺というお寺ですが、狛犬が居るので掲載します。
都電荒川線鬼子母神前駅から続く参道のケヤキ並木は樹齢400年の物もあり、東京都指定の天然記念物となっています。樹齢600年の大銀杏もそびえる境内、いつもは余り参拝者もなく静かなのですが、この日は骨董市がたち、沢山の人で賑わっていました。このお寺の由緒その他は末尾に記載します。

行き交う人々で賑わう入口

    境内の骨董市。
見る目が有れば掘り出し物に出会うかも?

重厚な本堂

本堂内陣

本堂をお守りしている江戸尾立ち狛犬

境内左側に有る
倉稲魂命を祀った古社・武芳稲荷
恐〜いお顔のお狐様がいらっしゃいます

鬼子母神はお寺の名前を「法明寺」といいます。 この鬼子母神堂は1578年の建立ですが、のちの1664年に松平安芸守の奥方が寄進して 現在のお堂が建てられました。
当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものです。東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
 その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自証院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。
 鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。

その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

 当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角のつかない鬼の字を用いて尊称しております。
 日蓮聖人は御書のなかで「十羅刹女と申すは10人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母なり、鬼子母神これなり」と述べられ鬼子母神を重視されています。
もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが、法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。(鬼子母神HPより)