神田明神

千代田区外神田2-16-2(平成18年4月23日)

この神社は世界的?に有名な秋葉原の近くに鎮座しております。明神下の平次として知られる銭形平次はここの参道下に住んでいたようです。境内には銭形平次とがらっぱちの八五郎の碑があり実在の人だったかと、錯覚しそうです。社伝によると天平2年(730)に創建。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。当初の祭神は大国主(大己貴命-おおなむちのみこと)たが平将門の首塚が近くにあったので、平将門神も合祀されるようになった。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。明治維新後、明治天皇行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、昭和59年になって本社祭神に復帰した。現在の祭神は3柱で序列は、一ノ宮に大己貴命、二ノ宮に少彦名命、三ノ宮に平将門神となっている。

大手町に将門の首塚があるが、そこが神田明神の元の場所であったようです。徳川幕府の時代江戸城の鬼門に当たる現在の地に遷座されたといわれ、朝廷に反旗を翻した平将門を祀ることによって、幕府の自立を宣したものと思われます。だからこそ、明治天皇は東京に来たとき真っ先に神田明神に参拝し、東国の王たる将門に挨拶する必要があったのではないでしょうか。その時一天俄にかき曇り雷鳴が轟いたと言う。恐るべし将門!。因みに、ここの氏子は決して成田山新勝寺を参拝してはならないと云われている。成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされている。

神田明神として有名なこの神社は、かっての正式名称は神田神社だったようです。
明治政府が明神とか権現を嫌ったせいでしょうか。
隨神門
昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立。
関東大震災で焼失して以来約50年ぶりの再建。
権現造りの拝殿
拝殿前左右で正面を睨んでいる狛犬。と言うより犬に近いかも。

拝殿右手に獅子山があります。今上が御即位の記念に再建されたようです。

母狛が我が息子を見守っている、と言ったように見えるが、本当に親子か?材質が違うようにも見えるが。

本殿を右側より望む。左前の石碑は銭形平次の碑。その右、小さいのは八五郎の碑。さらに右のは国学発祥の碑。

末廣稲荷神社 三宿・金刀比羅神社
末廣稲荷神社にお住いの御狐様。ブロンズとは珍しい。
浦安稲荷神社 江戸神社

小舟町八雲神社

居ました。文化6年(1809)5月建立の狛犬が。拡大写真はこちら。

大伝馬町八雲神社 魚河岸水神社

神田明神二の宮・少彦名命のご尊像

明神男坂。明神石坂とも呼ばれます。「神田文化史」には「天保の初年当時の町火消し「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神へ献納した」と由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めが良いため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。

上の文が書いてあります。 明神下より見上げる男坂

こちらから参拝する人はまずいません。でも江戸時代はこちらが参道だったようです。でも大銀杏が漁船の目印になったとか、月見が行われとか、現在の風景からは想像出来ません。ずいぶん変わったのでしょう。

由緒書きはこちら。