台東区根岸1-7-11 (平成23年5月8日)
東経139度46分52.35秒、北緯35度43分9.2秒に鎮座。
【神社情報・剣貝さんより】
この神社はJR鶯谷駅出口の北東すぐ、ラブホテルと飲食店が立ち並ぶ商店街の中に鎮座しております。夜ともなれば如何わしい雰囲気の中にネオンがともり、やや怪しげな日本語を操る女がたむろする、そんな街中、雑居ビルの隙間のような場所に佇んでおります。鶯谷とは、江戸時代、寛永寺の住職として、代々京都から皇族がやってきていた。そのうちの一人、公弁が、元禄年間に「江戸の鶯はなまっている」といって当時の文化人・尾形乾山に京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来する地名だそうだ。しかし、今の鶯谷からはそのような雅なお話は想像すら出来ません。
元三島神社御縁起
当社はご祭神に大山祇命、伊佐那岐命を頂き和足彦命、身島姫命、上津姫命、下津姫命を配祀申すものである。例大祭はご祭神勧請の時にちなみ五月十四、十五日とする。
元三島神社は円融天皇の御代日本総鎮守の称号を賜って名高い愛媛県大三島の元國幣大社大山祇神社を御本社に頂くものである。
当社由来の源は弘安四年の役の勇将河野道有、大山祇神社に必勝祈願し出陣したる処神恩加護の下武功赫々として帰陣したところ夢中に神のお告げを得て大山祇大明神を武蔵国豊島郡に勧請の願を発し上野山内に分霊を鎮座申上げた事に始まったと伝えられる。
境内由緒書より。
(下谷)三島神社御鎮座の起源
弘安四年元寇の役の砌、勇将河野通有は氏神三島大明神に祈願して白鷺の瑞祥によって、遂に夷狄を潰滅した。嚇々たる武勲を立て、帰陣に当り夢のなかに神のお告げを受けて、大山祇大明神を武蔵国豊島郡に勧請すべく発願し、分霊を奉じて上野山内の河野氏の館に鎮座した処、里人深く尊崇した事に始まると云う。その後慶安三年(1650)上野山内から徳川三代将軍家光公より社地移転を命ぜられ、金杉村に社地四石の朱印地を頂き社地替えをした。
更に宝永七年(1710)社地が幕府の御用地に指定されたので浅草小揚町(寿町)に替地遷座したが、氏神様が遠くては困るとあって、金杉村、根岸の氏子一同協議の末に根岸の熊野神社に合祀し元三島神社と称し、また金杉村字金杉町にも三島神社を遷座されて今日に至って居ります。当神社の宮司河野氏は代々河野通有の子孫が奉仕して居ります。社殿は昭和二十年(1945)三月戦災により焼失。現社殿は昭和三十年(1955)氏子各位の真心に依り再建された神明造に向拝を配したものであります。・・・・・・
境内由緒書より。原文はこちら。
大山祇神社のご分霊を祀り、その源を弘安四年の役に発する。勇将河野通有、大山祇神社に必勝の祈を捧げ神恩加護を仰ぎ、武功赫々として帰国したところ、夢の中に神のお告げを得て、上野山中にあった河野氏の館に分霊を鎮座したことに始まる。
東京都神社庁公式サイトより。
神社入口&社号標
週末ともなれば酔っぱらいの多い場所柄、悪戯防止の為か金網入り。拡大写真はこちら。 | |
(昭和51年(1976)4月吉日建立) |
正岡子規の句碑 「木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前」
参道階段
鳥居
拝殿
本殿
神楽殿
鶯谷駅&神社
社殿&飲食店
御朱印