墨田区両国3-13-9 (平成23年6月14日)
東経139度47分51.06秒、北緯35度41分24.3秒に鎮座。
【神社情報・剣貝さんより】
JR総武線・都営大江戸線、両国駅下車徒歩7分程の所に公園があります。門は開かず、横の潜り戸から入っていきます。当日、園内は人が絶えませんでした。
本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史跡公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁(なまこべい)長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
墨田区
フィクション『忠臣蔵』では吉良さんは敵役になっていますが・・・・「吉良」は戦国時代に滅ぶが家康が復活させるほどの名門。身分は旗本ですが格は大名。収入は旗本、支出は大名とバランスが悪い。コンサルタント業で現金を稼がねばならず、意地悪することは無いはず。失敗すれば次からは大名からの依頼が無くなるから。実際の業務を行っていたのは江戸家老。この人がドジを繰り返した。『忠臣蔵』ではこの江戸家老出てきません。殿様が切れた原因が当時でも判らなかったので芝居にするには都合が良かったのでしょう。
管理人の一言
今では人口密度の極めて高い密集地だが、松之大廊下事件後、幕命により吉良家が、呉服橋から此の地に移された当時、本所は江戸の郊外とされる辺鄙な所であったようです。ようするに幕府は吉良上野介を見捨てたと云っても良いのでしょう。さらに、吉良義央の正室、上杉富子は此の地に同行することなく、芝白金にある上杉家下屋敷へ移っています。上杉家からも見放されたと思われます。
本所松坂町公園
御由緒
「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討ち入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官(宮?)され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂公園開園とともに当所に遷座されました。
社額(写真でした)
吉良上野介義央(よしひさ)公
吉良上野介義央公の追慕碑
吉良家家臣二十士の碑
再現・義央公の「首洗い井戸」