榎稲荷神社

墨田区立川4-12-24 (平成23年5月31日)

東経139度48分37.38秒、北緯35度41分16.15秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR錦糸町駅より南西へ徒歩20分程の所、菊川公園に隣接して鎮座しています。訪れた時は公園に隣接している菊川小学校の運動会でした。校庭が狭いので公園も利用していました(普段はネットで仕切られいます)。社殿左側には焼夷弾の炎で焼けて炭化した榎が残されています。
社殿右側には穴稲荷があり、お穴様が祀られています。(お穴様:地中おられる神様で神社の土地をお守りしている。)

御祭神 宇賀御魂神
御由緒
天和3年、菊川の堤の内の建立と伝う。土手の内にありし故土手稲荷と尊称す。小祠なりしが宝暦年中に中風流行したりしに土人当社にその病の平癒を祈願し鬱蒼と茂る榎の皮を取り帰るに不思議とその効著しく近在の諸人踵を接して祈願をこめりと云う。その後如何なる故にか現在の地に移居したり、大久保紀伊守の邸内社となす。<中略:後に不始末で立ち退くことになり町民が管理することになる>
当時は社畔に幸衛門が店に鳩居せし氷川大乗院配下本山修験吉祥院といへるもの町民にかわりて大切に守護す然して又何時の頃よりか境内に多数林立せし榎の鬱蒼たるを見て誰謂うとなく榎稲荷大明神とたたえ奉りそれよりは榎稲荷神社と唱へ祈願に参る人跡絶えることなし。(文献に依る)
関東大震災にて焼失その後区画整理にて現在地に移転し昭和7年町名変更にて竪川4丁目と成る。
昭和20年3月10日東京空襲にて再度焼失したるに・・・・昭和40年5月町内有志相計り戦災20周年を記念に鉄筋コンクリート造りの社殿に復興申し上げ今日に至る。
境内石碑より抜粋。全文はこちら。

神社入口に立つ社号標と鳥居

手水舎

社殿

焼けて炭化した榎。「境内に多数林立せし榎の鬱蒼たる・・・」何時の頃までだったのでしょうか。

穴稲荷と石鳥居の一部

脇入口


竪川地蔵尊

地蔵尊の由来
大東亜戦争中昭和20年3月10日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲をうけ下町一帯は崩壊状態となり尊い人命を数多く亡し其の数実に10万人と言います。
攻撃に参加した敵爆撃機298機、投下焼夷弾1,783トン、被災者数100万人、焼失家屋27万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4,515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり同氏の浄財により昭和21年5月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和40年菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年3月10日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
地蔵尊の案内板 より

「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」と異名を持つカーチス・ルメイにより立案・実行された東京大空襲。戦勝国のためかカーチス・ルメイは戦争犯罪に問われることも無く戦後、航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与されています。敗戦国は辛いものがあるようです。

菊川公園

公園と菊川小学校