吾嬬(あずま)神社

墨田区立花1-1-15 (平成22年8月21日)

東経139度49分48.03秒、北緯35度42分08.21秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
東武「東あずま」駅より西へ徒歩10分、明治通り福神橋交差点の近くに鎮座しています。

御祭神:弟橘姫命 合殿:日本武命
縁起
抑当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀(議?)にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ〜吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離(垢離(こり)?)を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり。尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て、末代天下太平ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて、御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処、葉茂り相生の男木女木となれり。神代より今に至りて梢えの色変わらぬ萬代おさめし事、宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに、時の宮僧此御神木の葉を与えしに、病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って尊び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに、如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共、神徳の変らざる事を伝ふべし。共猶諸人の助けとならんと、略してしるす也。
境内由緒書より。原文はこちら。

弟橘媛(おとたちばなひめ)は日本武尊の東征に同行。走水(はしりみず)の海(現在の浦賀水道)に至った時、尊の軽はずみな言動が海神の怒りを招く。海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘媛は「私は夫である皇子の身に替わって海に入水します。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上に菅畳八重、皮畳八重、.畳八重を敷いて、その上に座って入水した。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になった。
ウィキペディアより

この社地が妻の遺品を納めるために尊が築いた築山であるとのこと。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきました。
この地「立花」の地名は吾嬬神社の祭神である弟橘媛(おとたちばなひめ)から町名をとったとのこと。「立花」という字は、当用漢字に有り、分かり易いという理由から。

神社入口と社号標

境内

拝殿

本殿

本殿前の江戸尾立。拡大写真はこちら。

(安永2年(1773)建立)

御神木「連理の楠」

ひとつの根から二つの幹が出たもので、明治時代末期までその威容を誇りましたが、大正年間には枯れていたことが写真資料からわかります。
吾嬬神社は、『葛西志』の中で吾嬬の森の神社としてすでに旧跡として認知されていました。『江戸名所図絵』や歌川広重の『江戸名所百景』には、連理の楠が描かれており、人々によく知られていたことがうかがえます。


福神稲荷神社

福神橋より

力石群

このうちの2個に刻まれた「正目四拾六貫四百目」と「正目五拾貫貮百目」は、それぞれ約174キログラム、188キログラムあります。この石の特徴として、江戸の有名な書家・三井親和が文章を書いたことが挙げられます。
親和は安永から天明年間(1772年から1788年)にかけて深川に暮らし、「親和染め」と称された暖簾や着物への書で名を残した人物ですが、力石に刻まれたものは珍しく、貴重なものといえます。また、「元木場材木町金七」とは、亀戸天満宮の力石などにも名が残る力持ちです。
「歌石」は、力石かどうか断定しがたいものですが、阿波国の75歳の美辰が詠んだ「もののふの鏡なりけり世々までも なを照らします大和ことの葉」と彫られています。このほか、牛嶋神社にもあった「さし石」がここにもあります。最後のひとつは無銘のものです。

正目四拾六貫四百目 正目五拾貫貮百目
歌石 さし石
無銘