神明宮

杉並区阿佐谷北1-25-5 (平成29年11月12日)

東経139度38分24.53秒、北緯35度42分15.33秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
JR中央線、阿佐ケ谷駅北口より徒歩10分程の所に鎮座しています。「お伊勢の森」については上記サイトにて詳しく解説されています。「トキ」がすむほどに、静かな森であったようです。

御祭神 天照大神
配 祀 月読命・須佐之男命

御由緒
除地、百五十坪、小名本村にあり、村内の鎮守なり、本社は二間に一間半、拜殿三間に二間南向、長さ二尺餘、圍二尺許の丸き石を~體とす、前に鳥居を立、鎭座の年代詳ならず、
新編武蔵風土記稿>多摩郡>阿佐ヶ谷村>神明社 より

この神社は、旧阿佐谷村の鎮守で、主祭神は天照大御神です。
天保7年(1836)に刊行された『江戸名所図会』巻四によると、日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(現阿佐谷北5-35付近、同周辺一帯をお伊勢の森と称した)に一社を建て、神明宮を勧請したのが当宮の始まりといわれます。
建久年間(1190〜1198)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊示をうけ、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられています。その後江戸時代中頃に至り、祇海という僧が神告により社を現在地に移し、世尊院が別当職を勤めたといわれます。
当宮は、村をこえた地域の信仰も篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠屋中 仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政11年(1828)の銅製の3本御幣が奉納されています。
秋の例大祭に能楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」(杉並区登録無形民俗文化財)は、江戸時代末期からの伝統があり、区内では早くに伝えられた囃子です。ここから井草囃子をはじめ、鷺宮(中野区)、戸塚(新宿区)などに流布していったといわれます。
杉並区公式サイト> 杉並区教育委員会 > 阿佐ケ谷神明宮 より

阿佐谷神明宮
同西の方、阿佐ヶ谷にあり。中野の通りよりは右へ入りて、十八町ばかりあり(阿佐谷は、小田原北条家の『所領役帳』に、「中野内阿佐ヶ谷」とあり。大田新六郎の所領にして、昔は中野に属せし小名なりしとおぼし)。
祭神伊勢に相同じ。神体は一顆の霊石なり。毎歳九月十六日を祭祀の唇とす。
別当は真言宗にして、阿谷山世尊院と号す(中野の宝仙寺に属す。すなはち宝仙寺の旧地なり)。
相伝ふ、景行天皇の四十四年、日本武尊東夷を征伐したまひて御凱陣のとき、この地に休らひたまひしかば、そののち、土人ら尊の武功を慕ひ奉り、その地を封じて一社を経営し、神明宮を勧請す。
しかるに建久の頃、この地の農民横井兵部といへる人(この人の遠裔、いまもこの地に住して子孫連綿たりといふ。その昔源頼義朝臣奥州征伐のとき、この地に至りにたまふに、この横井氏の祖兵部という者随兵に加わはりてありしが、急に病に臨みて戦場に趣くことなりがたく、ここに止まりつひに農民となる由、その家に伝うといふ)、祈願あるにより伊勢大神宮へ参詣せんと、勢州能保野の駅舎に宿す。
その夜大神宮の霊示ありて、翌日宮川の水中にして一顆の霊石を得たり。よつて神意に任せ旧里に携へ帰り、件の神明宮の社に安置して、神体となし奉るといへり。
その後祀海といへる沙門、神告あるにより社をいまの地に遷すとなり(その旧地は七、八町東の方にあり。土人、これを元伊勢と称す)。
新訂 江戸名所図会 四(文庫本)市古夏生・鈴木健一 校訂 より

江戸名所図会四原文はこちら。

御朱印
大鳥居 社号標

手水舎

参道脇、天神社

参道脇、能楽殿

神門

猿田彦神社

拝殿、参拝客が絶えない。

拝殿の右側

元宮

本殿(御垣内三殿)