池立神社

新宿区喜久井町20(平成19年2月3日)

 愛知県知立市にある知立神社の御分霊を、お祀りしている神社です。左隣りは喜久井町会館。元々は神社の境内だった筈ですが、現在は神社が隅に追いやられているような感じもあります。

 御祭神、創建、由緒などは下記「池立神社復興趣意書」にてどうぞ。

2月3日、節分です。豆と御神酒が供えられています。

池立神社復興趣意書
 知立神社の縁起を尋ねますと非常に古く、人皇才十二代景行天皇の御代才一王子日本武尊が天皇の命を受け東国平定に御下降遊され、三河の国に御到着(現在の知立町)の砌り此処に祭壇を設へ天神地砥八百万の神々を祀り平定の祈願をなされたのが起元で御座います。
 御祭神は鵜草葦不合尊(神武天皇の御父君)、合殿 日子穂手見命(鵜草葦不合尊の御父君)、豊玉毘売命(鵜草葦不合命の御母君)
以上の三神を総称して知立大神と申上げるので御座います。
 当池立神社は徳川家康の御子結城中納言秀康が大閣秀吉との養子縁組を解消して、越後の高田三十五万石の城主に封ぜられ御帰東の際本社である三河の知立神社に御立寄り御分社を乞ひ江戸日本橋蠣殻町の本邸に池立神社として御建立、未社に稲荷大明神を併せ奉杞されたのが始めで御座います。以後徳川一門の信仰いと厚く紋章も三葉葵を用ひ大変な権勢を誇ったものでありました。
 世は明治と変り十七年に下屋敷でありました当町二十二番地(現在早稲田小学校内)に移転、後ち、二十二年に現在の二十番地に移転奉祀されたのであります。然るに維持祭典奉仕を松平家に於て執り行ふ関係で附近少数のもの以外の町内在住者とは連りが無く勿論町の為になる様な何等の施設を持たずに神社が有ると言ふに過ぎ無い状態でありました。
 由来吾が国は建国以来神社神道(神ながらの道)即ち教神崇祖の精神にのっとり氏の組織を持って政治経済は勿論文化等一切は神社が中心になって行われ発達したのであり、まして現在其の一端として氏神の制が残って居るので御座います。これこそ我が国固有の日本精神として実に立派にして強固なる固有の文化を打ち立てられたのも神社神道が中心であった事は、うたがいの余地は無い事実であります。即ち神社は住民の為めに其の福祉を計り住民は神社を崇敬し一体となって国土を経営して来たのである。これが神社本来の使命であります。扨て昭和四年に至り松平家所有土地全部を分譲することに決定し、神社は渋谷の本邸に移転する予定になって居りました。
 当時町会は三十七番地(現在西原旗店の有る処)に二階六帖階下倉庫の八坪の事務所を持って居りましたが手狭で何かと不便で困って居りましたので之れが解決の方法に苦心して居ります矢先であったので、此の機会に池立神社を本来の使命に戻すことを決意しました。会長渡辺利喜平、副会長鈴木福治郎、幹事川端太郎吉、青柳卯三郎、佐内常展、菊池三郎、故人になった方々では小野雄乏助、大野喜作、岩瀬金次郎、鈴木兼吉、海透伸三等相謀り神社の維持祭典を町会で引き受け奉仕する旨を松平家に申入れました所、同家にも町会当局の意か了承し資金として金五百円を提供し一切を引継ぐことに決定しました。
 昭和六年に至り色々の困難なる事情はありましたが之れを排除して、本殿拝殿の改築と同時に社務所の新築を計画し、二階床の間違ひ棚付き十帖一間、押入付十帖一間、回り廊下表裏階段を付け、階下押入付六帖二間三帖一間、倉庫、台所、便所等三十六坪の総桧造りの壮麗なる社務所を新築し、尚備品として碁盤、将棋盤、各十面、大太鼓、小太鼓笛等の洋楽器を設偏し、掛け額には頭山満翁、竹下海軍大将、元の早大学長平沼叔郎の各氏に御揮毫を願ひ面目を一新した神社となりました。
 歴史を尋ねて約二千年の昔日本武尊が三河の国に知立神社の建立に基を起し、徳川時代に至り結城中納言が池立神社を建立し、其の後昭和四年町会の先輩諸氏が神社を存置し社務所の新築に努力した大なる力に依て戦災に会ふ迄で其の御恩に浴した事は感銘の外は無いのであります。万一此の計画が色々の困難に相遇して復興に至らず神社が町内より姿を消す事になれば本町の続く限り永久に非常な損失と言わねばなりません。此の際日本武尊、結城中納言や町会の先輩方々の力までは行かなく共喜々と皆様の結集の力に依て同じ歴史を子孫に伝へ度いものだと念願するものであります。皆様吾々の意を御了察下さいまして十二分の御協力御援助を賜ります様切に御願ひ申上げる次第で御座います。
昭和三十二年七月