品川神社

品川区北品川3-7-15 (平成26年4月27日)

東経139度44分34.26秒、北緯35度36分54.71秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
この神社は、京浜急行・新馬場駅の北西300m程の辺り、国道15号に面して鳥居が立っております。東京都神社庁公式サイトには「元准勅祭神社・新東京八名勝」と誇らしげに書かれています。

勅祭社(ちょくさいしゃ)とは、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる(これを勅祭という)神社のことである。ただし、伊勢神宮は毎年五大祭(月次祭を除く)に勅使が遣わされるが、別格とされ特に勅祭社と呼ばれてはいない。
勅祭社とされる神社は古くからあり、京都周辺の二十二社がその代表であった。
1868年(明治元年)、明治天皇が氷川神社の祭事を勅祭として行ったのが近代の勅祭社の始まりである。明治3年には東京とその附近の10社を准勅祭社(東京十社)と定めた。
ウィキペディア より

芝神明・日枝神社・根津神社・神田神社・亀戸天神社・駒込白山神社・品川神社・冨岡八幡神社・赤坂氷川神社・王子神社。東京十社と称されている。

新東京八名勝
昭和七年(1932)、報知新聞社が東京市拡張を記念する目的と、同社の新聞発行二万号記念とを兼ねて広く市民から募集し、投票によって決められた。入選した八名勝は、池上本門寺・西新井大師・北品川天王寺・日暮里諏訪神社・赤塚松月院・目黒祐天寺・洗足池・亀戸天神。

江戸時代は牛頭天王を祀る寺院であったようだが、昭和になっても天王寺と呼ばれたいたようです。何時現在のような品川神社になったのでしょうか。しかし、今でも例大祭は「北の天王祭」と呼ばれているようです。

御祭神 天比理乃命(あめのひりのめのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)・宇賀之売命(うがのめのみこと)

御由緒
後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めた。
東京都神社庁公式サイト より

御由緒
今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、 源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を 祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。
また、寛永十四年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)となり、元禄七年(1694)・嘉永三年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。
大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。
参拝の栞 より

参道入口

鳥居と社号標

昇り龍・降り龍
台座に遊ぶ狛犬達。残念ながら裏は損傷激しいようです。江戸職人の腕、冴えています。
参道入口左右の初期岡崎型狛犬。拡大写真こちら。
(大正14年(1925)6月建立)

境内

堂々とした体格の江戸尾立。黒いのは東京大空襲で焼かれた為か。拡大写真はこちら。
(寛政4年(1792)壬子6月大吉祥日建立)
籠入りの備前焼狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

手水舎

拝殿

後期江戸狛、最後の華か。拡大写真はこちら。
(明治17年(1884)3月吉日建立)

包丁塚

ここに紹介されている野菜を是非復活して欲しい!

御朱印