上神明天祖神社

品川区二葉4-4-12 (平成23年4月1日)

東経139度43分6.08秒、北緯35度35分57.63秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
東急大井町線・都営地下鉄浅草線・中延駅より徒歩約5分の所、上神明小学校に隣接して鎮座しています。

御祭神 天照大神、天児屋根命、応神天皇
御由緒
文永8年(鎌倉時代・西暦1272年)11月10日北条四朗左近太夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(現在の品川区二葉4丁目付近)に残って当地地域を開くように諭して、自らはこの地を去りました。
時千代は、後に法圓上人と称して大森(大田区)に厳正寺を開山し、家臣たちの多くは蛇窪付近に居住しました。
現在でも、厳正寺の檀徒がこの地域に多いのは、こうした理由からです。
文永8年の秋から50年ほど経て、元享2年(1322年)武蔵の国(現在の東京・埼玉)一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必死と見られました。このとき、厳正寺の当主、法圓の甥の第2世・法密上人は、この危機を救うため、厳正寺の戌亥の方向(北西)にあたる森林の古池のほとりにある龍神社に雨ごいの断食祈願をしました。上人の赤誠と神霊の冥助により、大雨が沛然と降り注ぎ、ついに大危機を免れることができました。
これに感激した時千代の旧家臣たちは、蛇窪に神社を勧請(神仏を別の場所に移し祀ること)し、神恩にこたえてまつりました。
これが、現在の天祖神社の縁起とされています。
一説には、鎌倉幕府時代に、この地の豪農、森屋氏(現姓森谷氏等の祖先)が建立したものとも伝えられています。
下神明天祖神社との関係は当初同一村同一神社でしたが、正保年間(1644年)今から363年前に下神明が上神明から分立したためです。
境内案内板 より

神社入口と大鳥居

境内

境内の江戸流れ。黒ずんでいます。空襲で焼けたのでしょうか。拡大写真はこちら。
(年代不明)

手水舎&社務所

拝殿

本殿


境内末社・稲荷社


境内末社・弁財天社

入口

手水鉢と龍 社殿