袖ヶ崎神社

品川区東五反田3-6-20 (平成23年4月1日)

東経139度43分56.31秒、北緯35度37分37.75秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
都営浅草線「高輪台」駅より徒歩5分、桜田通りに面して鎮座しています。さらに5分程歩くと同じ面に雉子神社が鎮座しています。雉子神社の兼務社です。

御祭神 豊受姫神(稲荷神)、天照皇大神(神明様)、誉田別尊(八幡様)
配祀  菅原道真命(天神様)、武甕槌命(鹿島様)、経津主命(香取様)、塩槌翁命(塩竃様)、市杵島姫命(弁天様)

当神社は東五反田三丁目、四丁目の一部の鎮守社で元忍田稲荷大明神(しのだいなり)と称し保延元年(1137)京都稲荷山より奉斎されました。其後康永3年(1344)越前国丹生郡小川村の鎮守八幡宮の神主山口眞竒の次男眞正が東国へ下向し、当社の神主となり爾来現在まで22代累代宮司として奉仕して居ります。眞正が神主となった時、神明宮を社の南の方へお祀りして当所の地名を以って袖ヶ崎神明宮と奉称、又八幡宮を祀り其後元禄年中に天満宮を正徳年中に塩竃大神をお祀りしました。又厳島大神(弁天様)は東都歳時記に言う御府内弁財天百社番外の四番でありました。
明治維新の際、袖ヶ崎神社と改称されました。
当社は徳川三代将軍家光を始め、伊達家細川豊前守等多数諸侯の崇敬あり、古蹟社と称されて寺社奉行直支配でありました。御社殿は江戸時代以来大東亜戦争罹災まで四度類焼、昭和三十に年氏子諸氏の奉賛により仮社伝が竣工、昭和四十に年六月社前の中原街道の拡幅に伴い境内整備と共に社殿其他を新築しました。
末社祖霊社、真正神社、神社祭祀に功のあった山口眞正命が祀られております。
境内案内板 より

御由緒
平安時代の保延3年(1137)に、京都から稲荷大明神を勧請したと伝えられる。もとは忍田稲荷と称した。
江戸時代にはこの付近に大名家や旗本の下屋敷が多く、袖ケ崎神社は、これらの人々の帰依を受けていた。
何度かの火災で社殿を焼いているが、延享2年(1745)の火災の折りには、仙台藩、伊達家が新社殿を寄進している。また細川豊前守が、金箔塗りの神狐1対を奉納したとの記録もある。
幕末の嘉永2年(1849)に建築された土蔵造りの社殿には、名工伊豆長八の描いた「八岐の大蛇」のこてえ鏝絵があったが、戦災で消失した。
しながわ観光協会資料 より

鳥居

社額

手水鉢

拝殿

本殿

境内末社

神楽殿

遠景