駒繋神社

世田谷区下馬4-27-26(平成20年6月8日)

東経139度41分1.97秒、北緯35度38分6.22秒に鎮座。

この神社は、駒繋小学校の南150m程の辺り、駒留中学校の北東150m程の辺りに鎮座しております。

祭神:大国主命

昔から「子(ね)の神」といわれ、出雲大社の分霊を守護神として祀る。天喜四年(1056)源頼義、義家父子が奥州征伐の際その武運を祈ったと伝えられている。
その後、文治五年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏征伐のおり、祖先義家が参拝したことをしのび、愛馬芦毛を境内の松の木につないで参拝したとのいい伝えから、明治以降駒繋神社と称するようになった。
世田谷区教育委員会

【御由緒】
当社は、今から約九百五十年程昔、平安時代後期、後冷泉天皇の天喜四年(一〇五六)四月に源義家公が、父頼義公と共に朝廷の命を受け、奥州の安倍氏征伐(前九年の役)に向かう途中、この地を通過する際に子の神(当社)に武運を祈ったと伝えられており、少なくともこれより以前に、この地の守護神としてお祀りされたと考えられております。
その後、文治五年七月(一一八九)源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を発しこの地に至った時に、義家公が子の神(当社)に参拝したことを回想し、愛馬であった芦毛より下りて、駒(馬)を境内の松に繋いで戦勝祈願をしたと言われており、この故事により、もともとの社名であった「子の神」が「駒繋神社」とも呼ばれるようになり、明治以降に正式に「駒繋神社」と称せられるようになりました。
また、新編武蔵風土記には「子の神の境内は五反(一五〇〇坪)下馬引澤の内小名子の神丸にありその所の鎮守なり、此社の鎮座の年歴を詳らかにせず、本社九尺に二間、拝殿二間に三間社地の末の方にも同じ鳥居一基を建てる」と記されており、当時の駒繋神社の様子を知ることができます。
NTT iタウンページ 駒繋神社 より

東京の八幡神社を巡っていると、「源義家公、奥州征伐の砌、当社に戦勝を祈願され云々・・・・・」といった由緒を持つ神社が多数あり、こんなに沢山の神社に戦勝祈願をしていたら、奥羽州にたどり着くのは何時になるのだろうか?。などと考え込んでしまったのだが、どうも義家公が戦勝祈願をしたのは八幡神社だけでは無かったようで、大変御苦労様なことであります。

H25.6.1 1948さんよりメールを戴きました。「駒繋神社を紹介済みですが、境内社について「不明の末社」となっていました。世田谷山観音寺 (下馬4-9-4)を周った時、情報を入手しましたので報告させてもらいます。」

H25.6.8 後に追加しました。1948さん神社情報有難う御座います。

神社入口と社号標

参道

拝殿

社殿はコンクリート造りですが、彫刻はしっかり残してくれたようです。

拝殿内部と本殿

招魂社

社殿の彫刻

不明の末社

神楽殿

境内


1948さんより頂いた末社情報です。

南向き稲荷神社 北向き稲荷神社