多摩川浅間神社

大田区田園調布1-55-12 (平成29年3月16日)

東経139度40分18.90秒、北緯35度35分03.55秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
東急東横線、多摩川線「多摩川」駅より徒歩数分の所に鎮座しています。

御由緒
当浅間神社は、今から約八百年前、鎌倉時代の文治年間(1185〜90)の創建と伝えられます。右大将源頼朝が豊島郡滝野川に出陣したおり、夫の身を案じ後を追って来た妻政子は、わらじの傷が痛み出し、やむなくここで傷の治療をすることになりました。
逗留のつれづれに亀甲山へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えました。富士吉田には守り本尊の「浅間神社」があります。政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。村人達はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
承応元年(1652)五月、浅間神社表坂の土どめ工事をしていたとき、九合目辺りから唐銅製の正観世音の立像が発掘されました。多摩川で泥を洗い落としてみると片足がありません。そこで足を鋳造してお祀りし、六月一日に神事を行いました。以来、神社のご祭礼は六月に行われております。
境内案内板 より

御朱印 秋バージョンの御朱印

入口

参道階段

参道階段

ふり返って、車用の入口

参道階段

拝殿

青山石勝風の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(大正3年(1914)10月吉日建立)

拝殿内部

鞘殿


手水舎、後ろは展望台。

中原街道に架かる丸子橋

東横線を走行する東武50070型


昔、下沼部村には、浅間、赤城、熊野の三つの神社がありましたが、明治40年、”一村に一神社”という合祀のための政令が出されたことから村人たちの話し合いが行われ、浅間神社が新しい村の鎮守様になりました。
当社公式サイト>歴史>社紋のいわれ より

浅間社
除地、小名堀廻しの西の方二十四五歩ばかりの山上にあり、勸リの年歴等も詳ならず、祭禮は六月朔日なり、東光院のもちなりと云、
石龕 山の上中央の所にあり、一尺五寸四方、高さ三尺東向なり、本尊正觀音は銅佛立像にて長八寸許、相傳此像は古佛にして此所へ垂跡ありし年代も詳ならず、
一年洪水ありし時風雨ことに烈しくして社内も破壊せしかば、尊像の所在を失ふ、これに因て土人新に前立の木像を作りて安置せり、長八寸許、
其後〔今より七十二年以前を云〕此所の大木の松樹かれしかば、別當より百姓等に課せて其根をほらしむるに、その邊より一軀の尊像をほり出す、
此時鍬にてかきしとて右のかひな(肱・腕)を失ふ、されどそのまゝにありしかば、文化六(1809)年土人相はかりて冶工に命じて右の手を修理して是を安置す、その尊像及び前立の木佛共に今は別當寺におさめり、
華表 山の中腹にあり、幅七尺(≒2m)巽(南東)の方に向ふ、

赤城社
字長久保の下通りにあり、上屋二間四方、中に九尺に四尺の祠あり、南向きなち、本地と云うものは地藏の木像にて長八寸はかり、其内に安ず、
華表南向兩柱の間七尺(≒2m)、當村東光院の持なり、

熊野社
除地、二段、密藏院の後ろにあり、村民傅次郎が先祖森雅樂介持地を社地に寄附せしとなり、上屋二間四方巽に向ふ、
中に一間に一間半の祠あり、前に鳥居たてり巽(南東)に向ふ、則ち密藏院の持ちなり、
末社、稻荷社、本社の傍にあり、尤小祠なり、
新編武蔵風土記稿>世田谷領>下沼部村 より

左より、阿夫利神社・小御嶽神社・稲荷神社・三峯神社。

元は三峯神社を護る狼だったのでしょうか。
阿夫利神社

三峰神社

あまり狼らしくないが、狼でしょうか。

神楽殿

境内