新田神社

新編武蔵風土記稿 ・第二巻 ・新田明神社
村の中央にあり、新田左兵衛佐義興の霊を祀れり。
縁起の略に云、新田大明神は、左中将義貞朝臣の次男左兵衛佐藤義興を祭れるなり。義興は妾腹の子なれば、兄 義顕討死の後も、三男義宗を嫡子とさだめられ、義興はあるにもあらぬ體(体)にて、上野にあり。
父義貞討死の後、建武三年八月北畠顕家鎌倉を攻しとき、義貞に志ありし武蔵上野の兵とも、義興を大将として顕家を救ひしかば、鎌倉合戦にうちかちて顕家とともに上洛し、吉野行宮み参りて後醍醐天皇を拝しけり。この頃までも徳壽丸とて童形なりしか、叡慮によりて元服し、かれは義貞が家を興すべきものなりとて、名を義興とぞ召れける。
いく程もなく顕家流矢にあたりて逝去ありしかば、義興は又東国へ下向し年月を送り、正平七年義兵を起し、家嫡左少将義宗、伯父脇家刑部卿義助が子右衛門佐義冶と共に、武蔵野の小手指原にて尊氏と合戦に及しが、みかたの軍うちまけたり。此時義宗は笛吹峠をさして落行しに、義興義冶はなを尊氏を窺んとて鎌倉の方へ忍び行ける。塗にて石堂入道三浦介が六千餘騎と行合しかば、其士卒をひきひて神奈川より又鎌倉へせめいり、大に戦ひて基氏をおひおとしければ、義興義冶もさきの恥辱を雪ぎ、あつぱれ大将と仰がれて暫く東八ヶ国の成敗をぞ司りける。これよりしばらくは相州河村の城に籠りしに、文和三年の春河村の城を落ければ尊氏は都へ帰り、基氏鎌倉に入替りけり。義興幼きより武勇人にこへ、智謀類ひなく、大敵を破り鋭陣をとりひしぎしかども、時至らざれば武蔵上野の間に忍びてありしが、その後義宗義冶と同く越後の国へ城郭を構へ、半国ばかりうちしたがへけり。然るに上武の内義貞に忠ありて、基氏の家老畠山入道に恨を含む人々、連署の誓詞を以て無二の志を存する間、三人の中一人東国に忍びて御越あらば、大将に仰ぎ義兵を挙ぐべきよしを申入ける。義宗義冶二人は許容なかりしに、義興はもとより勇者にて兎角のかへりみに及ばず、朗等百餘人を打つれたる旅客の姿に出立て、密に武州へぞ越ける。然るに東八ヶ国の内志を通ずるもの出きしかば、龍の水を得たる心地して時を待てぞありけるに、基氏及び家老道誓入道、ほのかに聞て安からずおもひ、計策をめぐらしけれども、討得ることあたはず。
ここに於て道誓ひそかに竹澤右京亮良衡にはかりけるに、もとより欲心盛にして情なき人なりければ、兎角に及ばず、左あらば御内の制法を背き、本国にかへりてはかるべしとて、これより爰かしこの傾城をあつめて晝(昼)夜酒宴遊興にふけり、或はあまたの傍輩をあつめて博打してあそびけるに、或人此由を道誓に告たりければ、道誓偽りて怒り竹澤か所帯を没収して追出しけり。かくて竹澤は本国へかへりひそかに人を以て義興へ申入けるは、父にて侯入道故殿の御手に属し、元弘年中鎌倉の戦にも忠を抽て、某もまた先年武蔵野御合戦に忠戦を致し候へども、其後は御座所をも知り奉らざるにより、心ならず畠山入道に属して命を助りけるが、心中の趣気色にあらはれけるにより、させる科もなきに一所懸命の領地を没収せられ、剰へ討取べきよしにて候間、武蔵の陣を逃出候。近年某が不義を御免あらば、御奉行仕るべしとこまやかに申入けるに、義興猶もあやぶみて見参をゆるさざりけるにより、竹澤密に人を京都に遣して、ある宮の御所より少将と申女房をよび下し、己が養女として義興に侍せしめければ、さすがに義興も情をかけ玉ひ、のちのちは竹澤へもまみえられければ、竹澤悦び礼物あまた奉り、内の人々には一献をすすめ引出物など贈りければ、人々も悦あへり。
かくて半年ばかりをすぎしかば、おのづから義興の心もとけて、いかなる密事をも告知らせけるにぞ、竹澤時分をはかり、九月十三 日夜の月のくまなくはれ渡るとき、義興を我館へすかしまねきて討とらんとはかりけるに、女房夢見あしきにより、夢ときに問へば、重き御慎にて候、七 日か間は門内を御出有べからずと消息ありしにより、義興風気と称して夜の遊をやめければ、その計もむなしくなりけり、ここに於て竹澤計のあらはれしを疑ひ、少将をば翌夜ひそかに刺殺して、堀中へぞ沈めける。その後竹澤思ひをめぐらし、畠山が方へ使をはせて、小勢なれば一族江戸遠江守堯寛、同下野守能登を急ぎさし下され候はば、倶に評定して義興を討まいらせんとぞ申ける、入道悦て謀をめぐらし、二人が所領稲毛の庄十二郷を関所しければ、二人は稲毛に城郭をかまへ、一族以下五百餘騎招き集め、入道に向ひ一矢射て討死せんとぞののしりける。
程へて遠江戸守竹澤を以義興をむかへ、大将として鎌倉へ攻入べし、鎌倉には一族二三千騎はあるべし、その勢を以相州をうち従へ、東八ヶ国を推て天下を覆すの謀をめぐらさんとぞ申ける。義興も竹澤が執り申すことなれば、謀ごととはしらず、かへりてたのもしきことにおもひ、ひそかに武上常総の間に志を通ずるものどもをかたらひ、延文三年十月十 日の暁義興忍びて立出、鎌倉へとぞ急がれける。江戸竹澤は矢口の渡の船の底を二所くりぬきて鑿をさし、向ひの岸には江戸遠江守が姪下野守と共に三百餘騎にてひかへ、此方の岸には竹澤屈強の射手百五十人、遠矢に射とらんとぞたくみける。忍びの御事なれば大勢の従者はいかがとて、兼てよりぬけぬけに鎌倉へぞつかはしける。義興は世良田右馬助等僅に十三人を打連て、鑿をさしたる船にのり、矢口の渡をおし出す。中流に至りて渡守櫓をとりはづしたる體にて川に落し、二つの鑿を一時にぬき、二人の水主は水に飛入底をくぐりて逃去又前後の岸よりは閧をつくり、箙をたたきてたはかり申とはしらで、おろかなる人々のありさまを見よやとて、一度にどっとぞ笑ひける。水は湧入て腰の程に及ぶとき、井弾正義興を抱きてさしあげければ、日本一の無道人にたばかれけるこそ無念なれ、悪鬼となりて怨をむくゆべしとて、腰刀をぬきて左の脇より右のあばらまで、二刀切たまへ、井弾正も喉ぶえをかき切て 自ら頭をつかみ、後へなげいたす、音二町ばかりぞ聞えける、喉ぶえをかき切て 自ら頭をつかみ、後へなげいたす、音二町ばかりぞ聞えける。世良田右馬助大嶋周防守二人は、さしちがへて川へ飛入、由良兵庫助同新左衛門は舟のともへに立ちあがり刀をとりて互に首を掻おとす、土肥三郎左衛門、南瀬 口六郎市川五郎三人は袴の腰を引ちぎり、裸體になり太刀を 口にくはへ川中へ飛入けるが、水底をくぐり向ふの岸へかけあがり、敵三百騎の中にかけ入、半時ばかりきりあひ、敵五人討とり、十三人に手をおはせ同じ枕に討れけり。
其後水練を入大網をおろし、義興及び従者十三人の首を求め出し、酒にひたし、江戸竹澤等五百餘騎にて、武州入間川なる基氏の陣へぞはせまいる。畠山入道斜ならず悦び、小俣少輔次郎松田河村等を召てみせければ、疑もなく義興の首なるよし申しけるにぞ江戸竹澤は忠功抜群なりとて恩賞数ヶ所に給りけり。竹澤は猶も評判の興薫を尋んとて、入間の陣に止め、江戸二人は暇を賜はり恩賞の地へ下らんとして、十月二十三日の暮程に矢口の渡に着き、舟を待ほどに、先に舟をしづめし水主二人酒肴を用意して、己も恩賞に預らんと迎の舟をぞ出しける。此舟中流に至るとき、暴風雨起り白浪舟をただよはしければ、あはて騒ぎて漕戻さんとするとき、浪にうちかへされて水主楫取一人も残らず水底に沈みける、これただ事にあらず、いかさま義興の怨霊ならん。餘の所より渡さめと遠江守は引返し二十余町川上の瀬に馬を早めて打けるに、雷夥しく鳴はためき、人家は遠し日は暮ぬ。助け玉へ佐殿と手をあはせて虚空を拝し、とある山の麓なる辻堂を 目がけて馬をあをりける所に、黒雲一むら江戸が頭の上に下り、雷電耳のもとになりひらめくおそろしさに、うしろをみれば義興緋威の鎧に龍頭の五枚甲の緒をしめ、白栗毛の馬の額に角のおひたるに乗て、あひの鞭をしとどうちて江戸を弓手になし、径七寸ばかりなる雁股を以、かひかねより乳の下かけて、ふつと射洞さるると覺へて、江戸は馬より逆さまに落ち、血をはきてたへ入んとしけるを、輿に乗せて門に舁付たれば、七 日が間足手をあがき水に溺たる真似をして死にけり。
その翌夜入間川には、畠山入道が夢に黒雲のうへに太鼓を打て、鯨波を作る聲しければ、何者やらんと見やりたるに、義興長二丈ばかりの鬼になりて、牛頭馬頭阿放羅刹とも二十餘人を前後に従へ、火の車を引て左馬頭の陣中に入と覺へ、胸うち騒て夢覚ぬ。
入道奇異の思ひをなし夢ものがたりをするも、いまだ終らざるに、俄雷火おちかかり、入間川の在家百餘、堂舎佛閣一時に灰燼となれり、その後道誓も罪を得て流浪の身となりて死けり。かくて矢口の渡には夜な夜な光物ありて、往來の人をなやます、野人村老集りて義興の亡霊を一社の神に祭り、墳墓をきづき竹樹を植て新田大明神と名づけける、これ延文三年十月なり、さればこの邊に立よる人は、忽神罰を蒙りけるにより神職をはじめ里人に至るまで近よらず。又いつのころよりか正月十 日、十月十 日二度の祭禮をこなひしより、年々おこたらずと云々此縁起は延寶年中林春斎のえらひしものなりといへば、多くは古書を閲して抄出せしならん今、「太平記」「神明鏡」「南方紀傳」等の書と参考するに、大抵はたがひなし、

閧 とき 鬨(とき)の声。スポーツなどで気勢をあげるために発する叫び。
箙 えびら 矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器のこと
雁股 かり‐また 鏃(やじり)の一。先が二またに分かれ、内側に刃をつけたもの。飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる。また、それをつけた矢。
晝=昼 餘 =余 體=体

太平記 新田左兵衛佐義興自害事
去程に尊氏卿逝去あつて後、筑紫は加様に乱れぬといへ共、東国は未静也。爰に故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興・其弟武蔵少将義宗・故脇屋刑部卿義助子息右衛門佐義治三人、此三四年が間越後国に城郭を構へ半国許を打随へて居たりけるを、武蔵・上野の者共の中より、無弐由の連署の起請を書て、「両三人の御中に一人東国へ御越候へ。大将にし奉て義兵を揚げ候はん。」とぞ申たりける。義宗・義治二人は思慮深き人也ければ、此比の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早にして、忠功人に先立たん事をいつも心に懸て思はれければ、是非の遠慮を廻さるゝまでもなく、纔に郎従百余人を行つれたる旅人の様に見せて、窃に武蔵国へぞ越られける。元来張本の輩は申に不及、古へ新田義貞に忠功有し族、今畠山入道々誓に恨を含む兵、窃に音信を通じ、頻に媚を入て催促に可随由を申者多かりければ、義興今は身を寄る所多く成て、上野・武蔵両国の間に其勢ひ漸萌せり。天に耳無といへ共是を聞に人を以てする事なれば、互に隠密しけれ共、兄は弟に語り子は親に知せける間、此事無程鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣・畠山入道々誓に聞へてげり。畠山大夫入道是を聞しより敢て寝食を安くせず、在所を尋聞て大勢を差遣せば、国内通計して行方を不知。又五百騎三百騎の勢を以て、道に待て夜討に寄て討んとすれば、義興更に事共せず、蹴散しては道を通り打破ては囲を出て、千変万化総て人の態に非ずと申ける間、今はすべき様なしとて、手に余りてぞ覚へける。さても此事如何がすべきと、畠山入道々誓昼夜案じ居たりけるが、或夜潜に竹沢右京亮を近付て、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、彼の義興の手に属して忠ありしかば、義興も定て其旧好を忘れじとぞ思はるらん。されば此人を忻て討んずる事は、御辺に過たる人可有。何なる謀をも運して、義興を討て左馬頭殿の見参に入給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語れける。竹沢は元来欲心熾盛にして、人の嘲をも不顧古への好みをも不思、無情者也ければ、曾て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛佐殿の疑を散じて相近付候はん為に、某態御制法候はんずる事を背て御勘気を蒙り、御内を罷出たる体にて本国へ罷下て後、此人に取寄り候べし。」と能々相謀て己が宿所へぞ帰ける。兼て謀りつる事なれば、竹沢翌日より、宿々の傾城共を数十人呼寄て、遊び戯れ舞歌。是のみならず、相伴ふ傍輩共二三十人招集て、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或人是を畠山に告知せたりければ、畠山大に偽り忿て、「制法を破る罪科非一、凡破道理法はあれども法を破る道理なし。況や有道の法をや。一人の科を誡るは万人を為助也。此時緩に沙汰致さば、向後の狼籍不可断。」とて、則竹沢が所帯を没収して其身を被追出けり。竹沢一言の陳謝にも不及、「穴こと/゛\し、左馬頭殿に仕はれぬ侍は身一は過ぬ歟。」と、飽まで広言吐散して、己が所領へぞ帰にける。角て数日有て竹沢潜に新田兵衛佐殿へ人を奉て申けるは、「親にて候し入道、故新田殿の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抽で候き。某又先年武蔵野の御合戦の時、御方に参て忠戦致し候し条、定て思召忘候はじ。其後は世の転変度々に及て、御座所をも存知仕らで候つる間、無力暫くの命を助て御代を待候はん為に、畠山禅門に属して候つるが、心中の趣気色に顕れ候けるに依て、差たる罪科とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収せらる。結句可討なんどの沙汰に及び候し間、則武蔵の御陣を逃出て、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某が此間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内奉公の身と罷成候て、自然の御大事には御命に替り進せ候べし。」と、苦にぞ申入たりける。兵衛佐是を聞給て、暫は申所誠しからずとて見参をもし給はずして、密儀なんどを被知事も無りければ、竹沢尚も心中の偽らざる処を顕して近付奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申ける上臈女房の、年十六七許なる、容色無類、心様優にやさしく坐けるを、兔角申下して、先己が養君にし奉り、御装束女房達に至まで、様々にし立て潜に兵衛佐殿の方へぞ出したりける。義興元来好色の心深かりければ、無類思通して一夜の程の隔も千年を経る心地に覚ければ、常の隠家を替んともし給はず、少し混けたる式にて、其方様の草のゆかりまでも、可心置事とは露許も思給はず。誠に褒■一たび笑で幽王傾国、玉妃傍に媚て玄宗失世給しも、角やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀る道を教しを不知けるこそ愚かなれ。角て竹沢奉公の志切なる由を申けるに、兵衛佐早心打解て見参し給ふ。軈て鞍置たる馬三疋、只今威し立てたる鎧三領、召替への為とて引進す。是のみならず、越後より著き纏奉て此彼に隠居たる兵共に、皆一献を進め、馬・物具・衣裳・太刀・々に至まで、用々に随て不漏是を引ける間、兵衛佐殿も竹沢を異于也。思をなされ、傍輩共も皆是に過たる御要人不可有と悦ばぬ者は無りけり。加様に朝夕宮仕の労を積み昼夜無二の志を顕て、半年計に成にければ、佐殿今は何事に付ても心を置給はず、謀反の計略、与力の人数、一事も不残、心底を尽て被知けるこそ浅猿けれ。九月十三夜は暮天雲晴て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会に事を寄て佐殿を我館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我館の傍にぞ篭置ける。日暮ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私の茅屋へ御入候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申候はん為に、白拍子共少々召寄て候。」と申ければ、「有興遊ありぬ。」と面々に皆悦て、軈て馬に鞍置せ、郎従共召集て、已に打出んとし給ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息あり。披て見給へば、「過し夜の御事を悪き様なる夢に見進て候つるを、夢説に問て候へば、重き御慎にて候。七日が間は門の内を不可有御出と申候也。御心得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是を見給て、執事井弾正を近付て、「如何可有。」と問給へば、井弾正、「凶を聞て慎まずと云事や候べき。只今夜の御遊をば可被止とこそ存候へ。」とぞ申ける。佐殿げにもと思給ければ、俄に風気の心地有とて、竹沢をぞ被帰ける。竹沢は今夜の企案に相違して、不安思けるが、「抑佐殿の少将の御局の文を御覧じて止り給つるは、如何様我企を内々推して被告申たる者也。此女姓を生て置ては叶まじ。」とて、翌の夜潜に少将の局を門へ呼出奉て、差殺して堀の中にぞ沈めける。痛乎、都をば打続きたる世の乱に、荒のみまさる宮の中に、年経て住し人々も、秋の木葉の散々に、をのが様々に成しかば、憑む影なく成はてゝ、身を浮草の寄べとは、此竹沢をこそ憑給ひしに、何故と、思分たる方もなく、見てだに消ぬべき秋の霜の下に伏て、深き淵に沈られ給ひける今はの際の有様を、思遣だに哀にて、外の袖さへしほれにけり。其後より竹沢我力にては尚討得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば委細に存知仕て候へ共、小勢にては打漏しぬと覚へ候。急一族にて候江戸遠江守と下野守とを被下候へ。彼等に能々評定して討奉候はん。」とぞ申ける。畠山大夫入道大に悦て、軈て江戸遠江守と其甥下野守を被下けるが、討手を下す由兵衛佐伝聞かば、在所を替て隔る事も有とて、江戸伯父甥が所領、稲毛の庄十二郷を闕所になして則給人をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽り忿て、軈て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招集て、「只畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取て兵衛佐に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢篭の身と罷なる間、力不及一族共を引卒して、鎌倉殿の御陣に馳向ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但可然大将を仰奉らでは、勢の著く事有まじきにて候へば、佐殿を大将に憑奉らんずるにて候。先忍て鎌倉へ御越候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎も可有候。其勢を付て相摸国を打随へ、東八箇国を推て天下を覆す謀を運らし候はん。」と、誠に容易げにぞ申たりける。さしも志深き竹沢が執申なれば、非所疑憑れて、則武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触て、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍で先鎌倉へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼て支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所えり貫て、のみを差し、渡の向には宵より江戸遠江守・同下野守、混物具にて三百余騎、木の陰岩の下に隠て、余る所あらば討止めんと用意したり。跡には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人勝て、取て帰されば遠矢に射殺さんと巧たり。「大勢にて御通り候はゞ人の見尤め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従共をば、兼て皆抜々に鎌倉へ遣したり。世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎佐衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門尉・南瀬口六郎僅に十三人を打連て、更に他人をば不雑、のみを差たる船にこみ乗て、矢口渡に押出す。是を三途の大河とは、思寄ぬぞ哀なる。倩是を譬ふれば、無常の虎に追れて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮出て是を呑んと舌を暢べ、其餐害を遁んと岸の額なる草の根に命を係て取付たれば、黒白二の月の鼠が其草の根をかぶるなる、無常の喩へに不異。此矢口の渡と申は、面四町に余りて浪嶮く底深し。渡し守り已に櫓を押て河の半ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓かいを河に落し入れ、二ののみを同時に抜て、二人の水手同じ様に河にかは/\と飛入て、うぶに入てぞ逃去ける。是を見て、向の岸より兵四五百騎懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚なる人々哉。忻るとは知ぬか。あれを見よ。」と欺て、箙を扣てぞ笑ける。去程に水船に涌入て腰中許に成ける時、井弾正、兵衛佐殿を抱奉て、中に差揚たれば、佐殿、「安からぬ者哉。日本一の不道人共に忻られつる事よ。七生まで汝等が為に恨を可報者を。」と大に忿て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回々々、二刀まで切給ふ。井弾正腸を引切て河中へかはと投入れ、己が喉笛二所さし切て、自らかうづかを掴み、己が頚を後ろへ折り付る音、二町許ぞ聞へける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人刀を柄口まで突違て、引組で河へ飛入る。由良兵庫助・同新左衛門は舟の艫舳に立あがり、刀を逆手に取直して、互に己が頚を掻落す。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎三人は、各袴の腰引ちぎりて裸に成、太刀を口えくわへて、河中に飛入けるが、水の底を潜て向の岸へかけあがり、敵三百騎の中へ走入り、半時計切合けるが、敵五人打取り十三人に手負せて、同枕に討れにけり。其後水練を入て、兵衛左殿並に自害討死の頚十三求出し、酒に浸して、江戸遠江守・同下野守・竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿の御坐武蔵の入間河の陣へ馳参。畠山入道不斜悦て、小俣少輔次郎・松田・河村を呼出して此を被見に、「無子細兵衛佐殿にて御坐し候けり。」とて、此三四年が先に、数日相馴奉し事共申出て皆泪をぞ流しける。見る人悦の中に哀添て、共に袖をぞぬらしける。此義興と申は、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後守義顕が討れし後も、親父猶是を嫡子には不立、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は有にも非ず、孤にて上野国に居たりしを、奥州の国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ責上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共、此義興を大将に取立て、三万余騎にて奥州の国司に力を合せ、鎌倉を責落して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠に武勇の器用たり。尤義貞が家をも可興者也。」とて、童名徳寿丸と申しを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召れける。器量人に勝れ謀巧に心飽まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当る事、古今未聞処多し。其後身を側め、只二三人武蔵・上野の間に隠れ行給ひし時、宇都宮の清党が、三百余騎にて取篭たりしも不討得。其振舞恰も天を翔地を潜る術ありと、怪き程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将も、安き心地をばせざりつるに、運命窮りて短才庸愚の者共に忻られ、水に溺れて討れ給ふ。懸りし程に江戸・竹沢が忠功抜群也とて、則数箇所の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉。」と是を羨む人もあり、又、「涜き男の振舞哉。」と爪弾をする人もあり。竹沢をば猶も謀反与同の者共を委細に尋らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人には暇たびて恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守喜悦の眉を開て、則拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日の暮程に、矢口の渡に下居て渡の舟を待居たるに、兵衛佐殿を渡し奉し時、江戸が語らひを得て、のみを抜て舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴を用意して、迎の舟をぞ漕出しける。此舟已に河中を過ける時、俄に天掻曇りて、雷鳴水嵐烈く吹漲りて、白波舟を漂はす、渡守周章騒で、漕戻んと櫓を押て舟を直しけるが、逆巻浪に打返されて、水手梶取一人も不残、皆水底に沈みけり。天の忿非直事是は如何様義興の怨霊也と、江戸遠江守懼をのゝきて、河端より引返、余の処をこそ渡さめとて、此より二十余町ある上の瀬へ馬を早めて打ける程に、電行前に閃て、雷大に鳴霆めく、在家は遠し日は暮ぬ。只今雷神に蹴殺されぬと思ひければ、「御助候へ兵衛佐。」と、手を合せ虚空を拝して逃たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲一村江戸が頭の上に落さがりて、雷電耳の辺に鳴閃めきける間、余りの怖さに後ろを屹と顧たれば、新田左兵衛佐義興、火威の鎧に竜頭の五枚甲の緒を縮て、白栗毛なる馬の、額に角の生たるに乗、あひの鞭をしとゝ打て、江戸を弓手の物になし、鐙の鼻に落さがりて、わたり七寸許なる雁俣を以て、かひがねより乳の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思て、江戸馬より倒に落たりけるが、やがて血を吐き悶絶僻地しけるを、輿に乗て江戸が門へ舁著たれば、七日が間足手をあがき、水に溺たる真似をして、「あら難堪や、是助けよ。」と、叫び死に死にけり。有為無常の世の習、明日を知ぬ命の中に、僅の欲に耽り情なき事共を巧み出し振舞し事、月を阻ず因果歴然乍に身に著ぬる事、是又未来永劫の業障也。其家に生れて箕裘を継弓箭を取は、世俗の法なれば力なし。努々人は加様の思の外なる事を好み翔ふ事有べからず。又其翌の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打て時を作る声しける間、何者の寄来るやらんと怪くて、音する方を遥に見遣たるに、新田左兵衛佐義興、長二丈許なる鬼に成て、牛頭・馬頭・阿放・羅刹共十余人前後に随へ、火車を引て左馬頭殿のをはする陣中へ入と覚へて、胸打騒て夢覚ぬ。禅門夙に起て、「斯る不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言ばの未終ざるに、俄に雷火落懸り、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼と成にけり。是のみならず義興討れし矢口の渡に、夜々光物出来て往来の人を悩しける間、近隣の野人村老集て、義興の亡霊を一社の神に崇めつゝ、新田大明神とて、常盤堅盤の祭礼、今に不絶とぞ承る。不思議なりし事共なり。