御穂鹿嶋神社

港区芝4-15-1 (平成22年5月2日)

東経139度45分08.81秒、北緯35度38分37.46秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR「田町駅」 5分の所にあります。もとはそれぞれ別の神社であった御穂(みほ)神社と鹿嶋神社が合祀されて御穂鹿嶋神社となっています。御穂神社は文明11年(1479)、鹿嶋神社は寛永年間(1624〜44)の創祀と伝えられています。

御祭神 藤原藤房卿・武甕槌命

御由緒
後村上天皇の頃当地に気高き老翁あり。俗人に交じりささやかな庵を結び村人を教え導いたという。翁の没後その高徳をしたい庵の跡に宮所を設け尉殿の宮と崇めた。
東京都神社庁公式サイトより。

万里小路藤房(までのこうじ ふじふさ、永仁4 年(1296 年) - 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5 月3日)?)は、鎌倉時代から南北朝時代の公家。父は万里小路宣房。弟に万里小路季房、養子に万里小路仲房(季房の子)がいる。
後醍醐天皇の側近として仕えて、鎌倉幕府倒幕計画に参加する。元弘の変では楠木正成の起用を勧めた人物と言われる。後に捕えられて下総国に流された。
建武の新政後に復帰して中納言になるが、天皇の側近重用政治を諫めるも聞き入れなかったため、新政権に失望して出家して京郊外の岩倉に隠遁してそのまま行方不明となる。
一説には妙心寺2世住持・授翁宗弼と同一人物とも言われるが、他にも三河国死亡説・常陸国死亡説・出羽国死亡説(秋田郡山内松原村補陀寺二祖無等良雄とする菅江真澄の見解)・津軽に下り、子の景房が飯詰城主津軽朝日氏の祖になったという説などがある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

要するに、御祭神の藤原藤房卿、晩年は行方不明。従って伝説の地は幾つかあるようですが、この地もその一つのようです。

神社入り口

社号標。右手の石碑は、一石一字経供養塔。神仏習合時代、別当寺は日蓮宗だったようです。「大乗妙法蓮華経全部一石一字六万九千三百八十四字謹寫」と書かれています。この下の、法華経69,384文字を書いた小石が埋められているのでしょうか。

経文を墨または朱で、小石一つに1字ずつ書き写したもの。先祖などの冥福を祈って地中に埋める。→経石(きょういし) 『大辞泉』

拝殿

垂れ目で子沢山の江戸流れ。落ち着いた、素晴らしい出来映えの狛犬です。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿内部

神額

神輿

本殿


石工も岡崎型だけでなく、こういう斬新な狛犬に是非挑戦して欲しいものです。拡大写真はこちら。


薩摩蔵屋敷跡 (神社の近くにありました)
現在では第一田町ビルの建っているこのあたりは江戸時代は松平(島津)薩摩藩所有の蔵屋敷でした。慶応4(1868)年3月14日、幕府の陸軍総裁・勝海舟がこの蔵屋敷に西郷隆盛を訪ね、江戸開城に向けて最終交渉を行ったことから、「江戸開城西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑を本芝町会設立15周年記念として建てられました。
本芝町会のHPより。