志演尊空(しのぶそんくう)神社

江東区北砂2-1-37 (平成23年6月26日)

東経139度49分47.5秒、北緯35度40分27.73秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
「明治通り」と「清州橋通り」との交差点「境川交差点」の直ぐの所、清州橋通りに面して鎮座しています。織田長好寄進の石燈籠は直ぐには分かりませんでした。思っていたのとは違っていましたので。

御祭神 倉稲魂命・須佐之男命・伊邪那美命・尊空親王・手力男命

御由緒 [志演神社]
寛永元年、深川郷唐島開発の際当地に訪ずれた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社名を称し、土地の氏神としてあがめた。
元禄年間、時の将軍徳川綱吉がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。
又、正徳二年の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快圓が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたところ病は止まり、これによつて毎年五月二十二日の祭礼を執行した。当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記載されている。

[新編武蔵風土記稿第2巻P67では]
村の鎭守なり、志濱稻荷と號す、深川富川町利益院持、社南に石燈籠二基あり、銘に正保4年織田長好寄進と彫れり、

[尊空稲荷神社]
尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして寛文三年十二月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。

[志演尊空神社]
昭和二十年三月九日の戦災により両社焼失。
昭和二十二年三月、志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。
境内案内板 より

一の鳥居

二の鳥居

石燈籠:左 正面:奉寄進石燈籠深川稲荷
石燈籠:右 側面:正保4年10月11日 裏面:平朝臣織田長好
東大寺南大門型狛犬
(昭和31年(1956)11月吉日建立)

拝殿

社額

本殿


力石

野菜の促成栽培発祥の地・砂村

御朱印