黒船稲荷神社

江東区牡丹1-12-9 (平成23年7月18日)

東経139度47分51.52秒、北緯35度40分3.13秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
東西線「門前仲町」駅、出口4番より黒船橋を渡り、左側最初の角をまがり、3本目の路地を入りほぼ真ん中、右側に面して鎮座しています。(グーグルマップ、ヤフー地図には掲載されていません)ちょっと寂しい境内でした。黒船町の由来について、寛文期には浅草「くろ舟丁」があり、そこからとの説もあります。黒船町の稲荷で「黒船稲荷」、町ごと神社も移転しました。

御祭神 国常立命・熊野早武命・倉稲魂命・大己貴命・八幡皇大神

御由緒
御創建は応徳3年(1086)と天慶3年(940)の2説あり、現在の浅草に造営されました。天慶3年説では俵藤太とも呼ばれる武将藤原秀郷による創建としています。秀郷は夢に宝を満載した黒船を見ました。船には神人が白狐を従えており、秀郷に「我は倉稲魂命なり。汝の分領入間川(隅田川)の浜の石上に白狐がいる所こそ我が有縁の地なり」と告げたので、早速川岸を見回すと石上に白狐がいました。そこで岡の上に石を御神体として一社を造営し、黒船稲荷大明神としたといいます。
また、黒船の名称の由来には、この付近にオランダ船が停泊したとする説、三浦按針ことウィリアム・アダムスが黒船を係留していたとする説など様々です。
享保17年(1732)、浅草に火災があり、黒船町一帯も類焼、社地も焼失しました。この火事の代地として現在の牡丹町の地を与えられたために、町とともに神社も移転してきたのです。
江戸時代後期の文化・文政時代、黒船町には『東海道四谷怪談』の作者として有名な四世鶴屋南北が住んでおり、その終焉の地としても知られます。又、江戸時代には牡丹の花を栽培していたという牡丹町の名にふさわしく、この地区自慢の親水公園には見事な牡丹が花を咲かせます。
富ヶ岡 No25 兼務社紹介 より

黒船稲荷は、現在では、鳥居とお堂があるだけですが、江戸時代には、古木の生い茂った森で「すずめの森」として有名でした。南北は、日本橋(中央区)の生まれで、一時亀戸に住んだこともありますが、晩年はこの境内に住み、「東海道四谷怪談」をはじめとする名作を生み出しました。そして、文政12年(1829)11月黒船神社の自宅で、75歳の一生を終えました。
江東区公式サイト 四世鶴屋南北終焉の地 より

神社入口

鞘堂

本殿