船方神社

北区堀船4-13-28(平成21年3月22日)

東経139度45分37.39秒、北緯35度45分2.06秒に鎮座。

 この神社は堀船の隅田川右岸に鎮座しています。この社より80m程西に我が家の菩提寺があり、参拝はさせていただいていたのですが、デジカメ持参ではなかったので、今回やっと掲載することが出来ました。
 旧船方村の鎮守社で、子供達の大好きな「荒川遊園地」西隣に鎮座してるのですが、ひっそりと目立た佇まいの神社です。というのも道路端入口に社号標・鳥居は建っていますが、奥行きのある神社で、この地域にしては鎮守の杜があり公園に隣接しているためでしょうか? 又、この社には東京大空襲をくぐり抜け、今も健在な、堂々たる江戸尾流狛犬もいます。

 船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社と呼ばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、伝承に基づいて建てられたものです。
 昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して、一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承の中にあります。十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では、世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため、塚などの祭壇にまつりました。
 密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰と結びつき、船方村の十二天社としてまつられたものともいえます。
 なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物が登場する点や、伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧の行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。
(北区教育委員会)

社頭
社号標 入口の靖国鳥居
参道・境内の様子
参道右側にある「百度石」 参道左側の「しずく石」
拝殿前、明治45年生まれの江戸尾流狛犬
熊のような顔つき・体型のボリューム感満点の狛犬です。この地域も空襲では多大な被害を受けているので、狛犬の体表は黒く変色し剥落も見られますが、未だ健気に神社をお護りしています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・庄司清三郎 明治45年(1912)3月吉日建立)
拝殿 拝殿に架かる額
本殿
社殿全景
境内社:御嶽神社
「日露戦役凱旋紀念」碑 「十二天塚」「村社船方神社祭神」碑
境内社:水神宮
「水神宮」碑 神楽殿