上小松天祖神社

葛飾区東新小岩4-23-8 (平成25年11月1日)

東経139度52分02.55秒、北緯35度43分26.62秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR総武線「新小岩」駅より北側へ徒歩約20分の所に鎮座しています。参詣時、境内を清掃中の御婦人が手を休め私に色々説明して下さり、楽しい時間を過ごしました。

我々も平成17年6月12日に参拝しましたが、神社巡り初心者で今からみるとお恥ずかしい写真しかありませんでした。今回剣貝さんよりお送り戴いた写真と資料で再作成しました。

ここは私達にとって記念すべき、神社巡り2000社目にあたる神社です。奥戸4丁目の新小岩自動車学校のすぐ南に鎮座していますが、地図には記載されていません。今では社殿はコンクリート製になっていましたが、すぐ左に旧社殿が残っており、そちらの方が数倍素敵でした。又祭礼が近いそうで、境内には何名かの氏子の方達がいらして、大団扇を竹からご自分達で作っていらっしゃいました。こういうものは既製品だとばかり思っていましたので、ビックリする傍ら興味津々で暫く見せていただきました。狛犬も昭和生まれですが、江戸狛犬の流れを汲む、どっしりと落ち着いた良い狛犬でした。

【狛犬情報・koboatsuさんより】  (平成21年1月19日)
 私は東京都葛飾区の上小松天祖神社の近所に住んでいるものです。
管理人様はこの神社の所在地を葛飾区奥戸4丁目としていますが、正式には葛飾区東新小岩4丁目23-8にあります。しかしながら、面白いことに社務所は奥戸4丁目にあります。
 昔は現在の社務所の敷地&教習所と神社本体との間に神社を半周するような狭い用水が流れていて、用水を境に向こう岸が奥戸4丁目、こちら側が東新小岩4丁目と分 かれていました。その後用水が埋まりましたが、神社の敷地の中に町の境界線が存在 することになりました。
Yahooの地図で見ると色分けされているのでそのあたりがわかるかと思います。

御祭神 天照皇太神
相殿 素戔雄命(すさのおのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)
葛飾区神社調査報告 より

御由緒
本神社は寛文六年八月十一 日上小松村正福寺法印権大僧都永盛に寄ってせしものなり
「葛西誌」上小松村は下小松村の北に續けり正保の田文に伊那半十郎御代官上小松村石貳百七拾石五十
四合に正福寺寺領拾石と出せり
香取社、天王社、正福寺
新義眞言宗山城國醍醐三寳院なり御朱印寺領十石村内に賜ふ
則本神社境内も寺領の内なり
正福寺は享保四年よりしばしば右徳院近郷御猟になり御膳所と定められ香取社へも御体を休ませ給ふと云う
寛永年中寺院大破となりしより其後は渡御もなかりしと云えり
昔より香取社と稱し■別当は香取山西蔵院 (元亀中興明治初年廃寺)なり
併して社号変更は明治初年頃なりしか不詳なり
現在の社殿 (昭和四十二年十一月末社として境内西側に存置す)文久三癸亥年十月の造営なり
明治六年、太政官布告令により社格無格社となる
昭和十二年十月十一 日、拝殿造営
昭和四十年十月二十七 日、天祖神社と八坂神社との合併を東京都知事の認証を得て、八坂神社は天祖神社の末社となる
昭和四十二年十一月末 日、天祖神社改築地鎮祭執行
昭和四十三年六月二十 日、天祖神社上棟祭を執行す
昭和四十三年十月十二 日、天祖神社八坂神社遷宮式執行
宮司 亀井悦造 記
歴代奉仕宮司名
明治元年御改政より、篠崎村永屋氏寿氏兼勤拝命
明治五壬申年十一月、平野重網氏祠掌兼勤拝命
明治十五年五月、金町葛西神社兼勤
明治四十一年十二月十二 日、西小松川香取神社社司亀井信太郎兼勤
昭和十一年三月十八 日、西小松川香取神社宮司亀井悦造兼勤
境内石碑 より (全文)

『新編武蔵風土記稿』上小松村の条に「香取社 神明・鹿島ヲ相殿トス。村ノ鎮守ニシテ、西蔵院ノ持。末社稲荷」とあるのが当社である。当社も葛西御厨時代に伊勢・香取両神宮を勧請して村の鎮守としたものであろう。社伝に、寛永6年(1666)上小松村正福寺永盛の創建というのは、同年社殿造立の棟札によったものと思われる。社殿はその後、延享2年(1745)2月、文久3年(1863)10月にも再建され、明治初年、社号を天祖神社と改め、明治21年10月、拝殿を改築し、昭和40年10月、もと摂社であった近傍の八坂神社を合併して末社とし、同43年10月、新社殿が造営された。
葛飾区神社調査報告 より

社号標 鳥居

手水石

拝殿

拝殿前の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(昭和11年(1936)10月吉日建立)

社額

拝殿内部

本殿


旧社殿と祭具庫、左側は教習所

旧社殿は稲荷社・水神宮となっています。

社額

左右の脇障子
水神宮 八坂神社

彫刻

浅間神社

力石

境内