半田稲荷神社

葛飾区東金町4-28-22 (平成22年11月7日)

東経139度52分50.38秒、北緯35度46分20.89秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR、京成 金町駅より東北へ徒歩約10分のところに鎮座しています。「葛飾区神社調査報告」には境内社「稲荷十五神合社」とありますが今は「白狐殿」に変わり白狐殿の参道脇には多数の石狐が居ます。神楽殿では葛西囃子の練習中でした。

御祭神 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・佐田彦神・大宮女神

御由緒
半田稲荷の初めは社記によると今を去ること遠く、永久年間の頃に祀ったと云われます。旧日照山三宝院は当社の別当であります。延享四年火災にかかり多くの什宝、記録をなくしたことは誠に残年(念?)です。今に社宝として建武二年の碑、享徳四年、古河公方の願文を蔵することによっても創立の古いことが察せられます。
当社は古河公方として関東に雄飛しました足利成氏の祈願所であります。社殿は延享四年火災焼失後、寛延二年再び造営されました。これが江所名所図絵にのせるところです。現在の社殿は其後弘化二年尾州家の立願に依って造営され、上棟祭には、徳川慶勝公以下家臣列して盛大に行はれたことは、社蔵の尾州家黒船警護祈願次第記で明らかであります。
中略
当時「願人坊主」といふ者、真赤なあかね木綿の法衣を裾みぢかく同じ頭巾の鉢巻、同じ脚半すべて真赤な扮装で手には「半田稲荷大明神」と書いた赤色の幟を持ち胸に引替の白狐を入れた小筐を掛けて足拍子もおもしろく「葛西金町半田の稲荷、疱瘡もかるい、痲疹もかるい運授、安産御守護の神よ」と節面白く繰返し謡ひ踊りつゝ江戸市中から全国を廻ってあるいたものです。
中略
又芝居等にも演ぜられたこと、近くは明治十三年新富座で故市川団十郎一座、大正年間にて歌舞伎座で尾上菊五郎一座が上演され、また昭和九年十月清水和歌氏に依って日本青年館で上演、昭和十九年六月市川九女八に依って上演された様に歌舞伎、舞踊に演ぜられるところであります。
以下省略。「半田稲荷」のしるべ より。全文はこちら。

社号標と一の鳥居

手水舎

(享保19年(1734)甲寅4月吉祥日建立) (孟夏、陰暦四月の別称)

二の鳥居

境内入口のお狐様

拝殿

拝殿前のお狐様

社号額:中村正直筆

中村正直 なかむら まさなお 天保3年5月26日〜明治24年6月7日(1832〜1891)
東京生まれ。教育家。父は幕府の同心。昌平坂学問所に学び、安政2年(1855)学問所教授、文久2年(1862)幕府の儒官となる。慶応2年(1866)幕府遣英留学生の監督として渡英。維新で帰国し静岡に移り、『西国立志編』『自由之理』を翻訳刊行、ベストセラーとなる。明治5年(1872)上京し、大蔵省に出仕。6年(1873)家塾同人社を開設。7年(1874)明六社に参加。キリスト教にも関心を持ち受洗。女子教育・盲唖教育にも尽力した。14年(1881)東京大学教授、19年(1886)元老院議官。文学博士。
近代日本人の肖像より。

本殿


御神水井戸。周りの玉垣に歌舞伎役者の名前が彫られています。

神楽殿

雷神社

左、大土神社・右、水神社

富士塚・浅間神社


白狐殿

区内最古のお狐様

狐塚