興之宮神社

江戸川区興宮町18-26 (平成25年6月30日)

東経139度52分42.53秒、北緯35度43分16.86秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
JR「小岩」駅より徒歩20分弱の所に鎮座しています。子狛犬(の目)がかわいかった。境内社の案内が無かったのが残念。

御祭神 天照皇大神

御由緒
興宮天祖神社改修と境内整備完成に当り神社の由緒と歴史の概要を残された文献と口碑とを中心として後世に伝えんとして記す。
興宮神社の祭神は天照皇太神を主体とし香取鹿島両神宮のニ体が合祀されている。創立年代は不詳であるが鎌倉時代の関東の豪族葛西三郎清重の家臣一色某なる者の領地であったと伝えられる。徳川幕府初期即ち寛永七年十月建設と古書にある。当興宮神社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と呼び両神社の因縁深き事は今に至るも尚継続している。江戸末期の文献には幕府直轄の代官支配下の幕府直納の米の生産地であった。地名は武蔵の国東葛西領興之宮村と呼ばれた。村の面積は二十二町歩、戸数は十数戸、人口百十数人と言ふ淋しい農閑村部落であった。神社の境内は約四反歩、別に田畑三反余の財産があったがこれは戦後農地法に依り耕作者の所有となった。凡そ神社佛閣の維持は有力な氏子崇敬者或いは特別な支援協力なくして維持運営は難事である。その点に欠けた当神社の維持は全く容易ならぬ事であったと当時の村人我々祖先の苦労を偲び感無量なるものがある。太平洋戦争の終局に伴い国民感情は正に虚脱状態となり、一般国民生活は極度に窮迫の一途を辿るのみ、況や神に対する信仰観念や境内整備等への関心は殆んど絶無である。従って神殿境内は放置され勝となり斯くし三百年の歴史を閲して今日に至った。茲に於て社殿の大改修と社務所の新築、境内の整備の必要を痛感し、日日に荒みゆく国民感情の融和と社会福祉の一端なりにも寄与し氏子の切実な要望に應へんが為、境内一部の宅地変更に依り、これが資金に充当し氏子負担を避け即ち神社 自体の財産に依り一切を賄うべく企画し、これが実現に専念した。幸い神社本庁の認証を得、更に関係各方面の理解と支持就中宮司亀井悦造氏の適切なる御指示と特にこの広大なる境内の神社を護り続けて来た我々遠い祖先に感謝しつゝ茲に一切の改修整備の完成を見るに至った次第である。
大野録三記 昭和四十一年八月吉日

入口

手水舎

鳥居

狛犬と拝殿

渋い面構えの江戸流れ。拡大写真はこちら。
(石工・石井重太 昭和8年(1933)癸酉10月吉日建立)
左右の木鼻

本殿

内部


境内社

末社?