素戔雄神社

荒川区南千住6-60-1 (平成26年5月12日)

東経139度47分57.50秒、北緯35度44分01.95秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
既に素戔雄神社を紹介していますが、芭蕉について触れていないので、全編「蛇足」として報告させてもらいます。お付き合い下さい。

千住大橋

最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。
架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。
伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたといわれる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱をつかって綱引きをして吉凶を占う行事があった。
架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。
千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ。なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。
その後、二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。
ウィキペディア より

「大橋」のプレート

大橋のミニチュア?と道中笠・杖、橋を渡って旅立と

松尾芭蕉の碑

旅立
弥生も末の七 日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野 ・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。

千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の 目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、俳聖「芭蕉」を偲び、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
 建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できぬ為に、平成7年当社御鎮座1200年祭に際し復刻し、これを契機に「奥の細道矢立初め全国俳句大会」が毎年春に開催されています。
素戔雄神社公式サイト より

献句札

松尾芭蕉前途三千里の想いを胸に「奥の細道」旅立ちの舞台となった千住。紀行から百三十年後の文政三(一八二〇)年、亀田鵬斎ら文人たちの手により、旅立ちの地の鎮守 素盞雄神社境内に矢立初めの句『行く春や鳥啼き魚の目は泪』の碑が建てられました。
本俳句大会は、素盞雄神社ご鎮座千二百年を記念し、俳聖芭蕉の偉業を称え、郷土の歴史継承と俳句文化興隆を願い、芭蕉旅立ちの『弥生も末』に因み境内に於いて開催致しております。素戔雄神社公式サイト より

大橋公園(千住大橋北詰)おくのほそ道矢立初めの碑

橋の下・芭蕉と同行した弟子の河合曾良(そら)