三峰神社

荒川区荒川3-22 (平成28年3月15日)

東経139度47分09.22秒、北緯35度43分54.72秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
JR「三河島」駅、京成線「新三河島」駅より徒歩10数分の所、入り口は明治通り南側にあります。私はJR「町屋」駅より都電荒川線に乗り換え「荒川区役所前」駅で下車、当神社までは徒歩約6分です。神社と都電を楽しんできました。ここの神社も三峰講の人たちが勧請したものと思われ、大きくはありません。

御祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊

参道入口

参道と一の鳥居

袈裟塚耳無不動
光三郎(仙光院九世住職光慧)とお絹の情愛物語は、袈裟塚の耳無不動伝説として今も伝承されている。
伝承によれば、悪い病いで耳が落ち腰も抜けた光慧は、仙光院門前に袈裟塚をつくり不動明王を安置して、村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦十年(1760)建立のこの不動尊台座には、「東叡山領」や道しるべの文字が刻まれている。また、この不動を題材に、江戸の戯作者山東京伝(さんとう きょうでん)の『三河島御不動記』という黄表紙が寛政元年(1789)に板行された。
明治二十九年、明治通り北側から三峰神社内に移された。

三峰神社袈裟塚(けさづか)の耳無不動
三峰神社境内にある「袈裟塚の耳無不動」は、仙光院住職第九世光慧(こうえ)の建造とされます。光慧と吉原の遊女との波乱に満ちた悲劇的情愛物語が地域に伝わっています。山東京伝の「三河島御不動之記」という黄表紙に別のお話としても登場します。袈裟塚の上に建てられた不動明王は、左耳が無く、耳の病などにご利益があると伝えられ、穴をあけたお椀を奉納する慣わしがあります。
荒川区の公式サイト より

境内

二の鳥居

手水舎

社殿

米軍の空襲で焼かれたようでやや損傷が見られます。
(皇紀2597年 三河島講 昭和12年(1937)9月19日建立)

先代様

袈裟塚耳無不動

穴をあけたお椀

案内

光三郎(仙光院九世住職光慧)とお絹の情愛物語
 光三郎は藩中一の美男と称され、同藩江戸詰、御用人佐野五左衛門の娘きぬ(十七)とは、生前親が赦した許婚であった。当時お絹は今小町と詠はれたが、其の美貌は少しもおきぬに幸ひず、早くよりお絹に縣想せし同藩都築伊賀の伜兵馬と云ふ放蕩者は或る夜、思ひが叶はぬを遺恨になし、多くの無頼漢を引連れ佐野の宅に押入り、寝込みを襲つてお絹の父母弟新次郎を斬殺しお絹を辣つし去つた。
 吉弘光三郎は今更ながら己れの不甲斐なき事を感じ当のない仇敵など探すより、一そう寺僧になり姑や義弟の無き霊を弔つた方がどんなにか……とさへ思つた。
 江戸下向より八年目、寛保三年光三郎の姿は上野東叡山某院に現れ、身に墨染の法衣を纏ひ、光慧法師となつた。光三郎事光慧和尚は翌々寛延二年の春、上野山内清水堂の前で花見帰りなる吉原遊女の一団中にお絹の姿を発見した。
 お絹の物語りに依ると某夜、兵馬は佐野の一家を斬殺すると直にお絹を引浚ひ、無頼の一味と共に東海道神奈川宿まで落延び、相変らず悪事ばかりしてゐたが金に窮するところから無理に同棲して間もなきお絹を新吉原の妓楼新上総屋七右衛門(一説に巴屋伝助と云ふ)方へ八十両で売飛ばし、そのまま姿を隠したと云ふ。
 薄幸なるお絹は源氏名を紅山と名乗り、苦界に身を沈めたが、生来の美貌と武士娘の気品は勿ち廓中でその全盛を謳はれた。
 光慧和尚は一日山内でお絹に会つてからは、元の浮世風が体に泌み込み、墨染の法衣を身に纏ひ仏に仕ふる出家の身であり、厳しい戒律も忘れ、頭を包み長羽織小脇差しの変装で隠し名を元の光三郎と呼ばせ、役僧の目をくらまし、蔵金を盗んでは吉原へ足繁く通ひ詰め恋と仏と仇討の三つが和尚の頭に渦巻ひた。併し運命は到る処で鉾を逆しまにして二人を虐げた。
 宝暦元年(一七五一)三月某日蔵金を盗みし事を役僧に発見され本山寛永寺執事より「僧形の身を以つて遊女の愛に溺れ、剰へ役僧の目をくらまし蔵金を使ひしは……」と云ふ折目正しき言葉と共に光慧和尚はその夜同寺の裏門からすごすご追ひ出された。(註、東叡山歴代主僧伝には宝暦二年五月光慧悪疾に依り退院とあり)そこへ通り合せた三河島村の植木屋久兵衛なる義侠家が、これを救ひ、連れ帰り、半ば荒廃して当時無住状態にあつた同村真言宗仙光院(同院は阿照山阿弥 ?密寺と称し明治初年廃絶せり)を中興し、同寺九世の住職にした。仏罰はそれのみでは済まなかつた。其後光慧和尚は悪疾に罹り、腰が抜け耳が落ちるという始末。或夜のこと同寺の本尊不動明王が夢枕に立ちて曰く「汝御仏に仕ふる身でありながら、厳しき法戒を犯せしは仏罰の程甚だし、なれど大恩うけし里人の諸難を救はば其罪を許す可し……」和尚は今更ながら仏罰の恐しさを感じ、早速村人を救ふ一端として、翌日門前の往還に(今の町役場入口交番の付近)己れの法衣を埋め袈裟塚と称し、日夜、村内五穀成就、往来安全などの祈願をした。之れが今に伝はる袈裟塚の由来である。
 翌年三月には同塚上に石刻高さ六尺余の不動尊を安置し、台石に道しるべなどを刻り、請人参拝人に便利を与へた。併し和尚の悪疾は全快せず、遂に宝暦七年六月十二日「袈裟塚やかやりのはてや、もとの土」と云ふ辞世を残し、寂しく入滅した。時に光慧和尚は年四十二歳であったと云ふ。
 その後幾月かの後、何処ともなく現はれた一尼僧が同寺の門前に空高くそびへてゐた松の巨木で縊死を遂げたと云ふが、恐らく之れは紅山事お絹の後身であつたらうと云ふ。今も同女の墓標が残つてゐる。
『隅田川とその両岸 補遺(中巻)』

庚申塔群三基 慶安5年「本地青面金剛待」銘他

成田山不動尊

最寄り駅「荒川区役所前」駅より、8800型

都内唯一のチンチン電車!