中曽根神社

足立区本木2-5-7 (平成26年5月12日)

東経139度47分20.32秒、北緯35度45分47.30秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
日暮里・舎人ライナー「扇大橋」駅より東へ徒歩20分強の所に鎮座しています。

御祭神 国常立命・大雷神

御由緒
中曽根城は、室町時代千葉次郎勝胤公によって築城された。周囲六町四方(36ヘクタール)で、そとがまえに堀や土居をめぐらしていたと伝えられている。
今でも小宇に、井戸、小屋の内出などの名が残っている。
当社の境内は城の一部で、一段と高く、千葉氏の信仰する妙見社がまつられていた。幾星霜の間に周辺は耕地となり、現在は都市化した。
昭和七年、妙見社と興野の雷社と合せて中曽根神社とし、当地の氏神として祀ったものである。
境内石碑 「史跡 中曽根城跡」 より

神社の起源は、この地に城を築いた武蔵千葉氏が崇敬した妙見社に発し、1534(天文3)年の勤請と伝えられています。『新編武蔵風土記』には中曽根神社の名はなく、妙見社という記述が見られるだけです。1932(昭和7)年に興野の雷神社を合祀し、この時に字名をとって、中曽根神社に社名が改められました。現在祀られている祭神は、国常立命と大雷神です。
ブックレット足立風土記(二) 西新井地区 より

「中曽根」の地名は、江戸時代以降に使われた本木村の小字名です。武蔵千葉氏の居城だったころは、この辺りは「渕江」もしくは「渕江郷」と呼ばれていたので、この城は「渕江城」と呼んでもいいでしょう。
ブックレット足立風土記 西新井地区 より

淵江城
1400年代中ころ、京都の室町幕府から出向き関東を治めた鎌倉公方(かまくらくぼう)と、これを助ける関東管領上杉氏(かんとうかんれいうえすぎし)との間で争いがおこりました。関東の武士も、両派に分かれて合戦をはじめました。下総国(しもうさのくに、千葉県)の千葉氏(ちばし)も、本家と分家が敵味方に分かれ争いました。合戦に敗れた本家の千葉実胤(さねたね)と自胤(これたね)兄弟は家臣を連れ、上杉氏(うえすぎし)と家老(かろう)の太田道灌(おおたどうかん)をたより武蔵国(むさしのくに、埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の赤塚城(あかつかじょう、板橋区)と石浜城(いしはまじょう、台東区)に移り住みました。さらに千葉自胤(ちばこれたね)は、現在の足立区にあたる淵江郷(ふちえごう)に入り、このあたりを治めはじめました。その中心は、現在の本木(もとき)にあった淵江城(ふちえじょう)と呼ばれた城でした。戦国時代には、千葉氏は戦国大名北条氏(ほうじょうし)に従い、引き続きこのあたりを支配しました。北条氏がほろぶと千葉氏も城を立ち去りました。江戸時代には城があったことすら伝説になり、一族の守り神であった妙見社(みょうけんしゃ、現在の中曽根神社(なかそねじんじゃ)が残っただけでした。1996年(平成8年)、この場所を発掘調査すると、城のほりのあとがみつかり、言い伝えが正しいことがわかりました。
足立区立郷土博物館トップページ?>?キッズメニュー?> 戦国時代の城跡〜武蔵千葉氏と淵江城〜より

北側入口

南側入口

新緑が気持ちいい境内

手水舎 手水石と水神碑
記念碑 社号標

拝殿&祭具庫

拝殿前の岡崎型狛犬
(昭和55年(1980)9月建立)

注連縄

向拝の龍

木鼻の狛犬
屋根上の飛び狛

本殿鞘堂

神楽殿