八坂神社

日野市日野本町3-14-12 (令和3年9月24日)

東経139度23分56.24秒、北緯35度40分33.08秒に鎮座。

この神社は、JR中央本線・日野駅の東150m程の辺り、日野の街中、旧甲州街道に面して鎮座しております。

祭神 素盞嗚尊
配祀 櫛御気野命・倉稲魂命・大山咋命

由緒
創立年代は不詳であるが、むかし日野本郷の多摩川の流れに沿って土淵という深淵があり、それでこの付近を土淵の庄と云ったが、あるとき多摩川洪水の後、数夜にわたってその淵に何か怪しい光るものがみえたと云う。里の老翁がこれを拾い上げたところ、金色燦然とした牛頭天王の神像であったため、里人は歓喜してこれを勧請し、祠を建立、鎮守として祀ったのが当八坂神社の起源と云われ、五穀豊穣・疫病除け・子孫繁栄に霊験無双の神なりとしてある。
本殿は、寛政12年(1800)に完成したもので、様式一間社造り、屋根は流れ造りで、正面に千鳥破風・軒唐破風の向拝を付したものである。更に、四面(胴羽目、正面)に白木彫りの彫刻垂木の組物等、建築技術の粋をつくした絢爛華麗な江戸後期の典型的な社殿(本殿)建築である。この本殿には、安政5年(1858)に天然理心流近藤周助の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられている。
例大祭は、毎年9月、盛大に行われ、特に「千貫みこし」とよばれる神社神輿の渡御は都内、近県でも有名な神事で、絢爛豪華な祭絵巻が繰り広げられている。
境内由緒書き より。

神社入口

社殿

社殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正4年(1915)12月吉日建立)


天然理心流奉納額

近藤周助
寛政4年(1792年)、武州多摩郡小山村の名主・嶋崎高友(休右衛門)の五男として生まれる。
文化8年(1811年)、近藤三助(天然理心流剣術2代目)の弟子となり、天保元年(1830年)に流派を継いで、近藤の姓を名乗る。なお、周助は三助より剣術の免許のみを得ており、近藤姓を名乗った頃は既に三助の死後11年が経過していた。また、三助には何人もの高弟がおり、天然理心流の三術(剣術、柔術、棒術)の免許を得た弟子も何人か存在するため、周助が近藤姓を名乗った理由は謎とされている。
天保10年(1839年)、江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町25番地)に移転、天然理心流剣術道場・試衛館を開設。嘉永2年(1849年)、宮川勝五郎(後の近藤勇)を養子に迎え、嶋崎(のちに近藤)の姓を与える。文久元年(1861年)代を勇に譲って隠居し、名を周斎と改める。文久3年(1863年)、近藤勇らが浪士組として京都へ出立した後、留守中の試衛館について復帰しようとしたが、同年に中風を患い病床に伏した。そのため、佐藤彦五郎を介して近藤に帰府を促している。
慶応3年(1867年)、近藤はじめ新選組全員が幕臣取り立てとなったその年の10月、移転したばかりの牛込廿騎組屋敷(現新宿区二十騎町)にて病死した。墓は港区金地院にある。
ウィキペディア より

絵馬