勝占(かつうら)神社

徳島市勝占中山26 (平成25年1月6日)

東経134度33分06.58秒、北緯34度00分55.01秒に鎮座。

この神社は、JR牟岐線・地蔵橋駅の南1km程の辺り、線路の西側に聳える中山の東側山裾に鎮座しております。古くはこの中山の裾野まで海が迫っていたようで、社名は「勝浦」の当て字かも知れません。

御祭神 大己貴命

当社は勝占町中山の中腹海抜六五米の高所に鎮座する古い社で今を去る千余年前(西歴927年)の延喜式神明帳にも載ってい る阿波国五十社の一つ。
古代この附近一帯は海であって出雲系海人の豪族が支配しその大祖神の大己貴命(大国主命)を海に突き出た中山の東端、展望のよい景勝地の当地に祀った。これが勝占神社の 発祥であると思われる。
爾来中山をとりまく篠原郷篠原庄の氏神となり、古くは領主たる京都仁和寺より神田七町五反の寄進、源平時代には平家の重鎮田口一族の尊信をあつめるかたわら、小松島に上陸した源義経が屋島にむかう途次ここに参拝し「勝を占める」縁起を説いて士気を鼓舞したとの伝説、あるいは蒙古来襲の国難に当っては当国代官司の必勝祈願、降って戦国末期には阿波国守護細川持隆の社殿建立、江戸時代には蜂須賀家政ら三代の社参についで治昭の堂宇建立、等々国守級の人々からも篤い信仰が続き今日に至っている。
なお、本殿北の脇社であった金比羅祠は藩初家政に懇請せられて城府鎮護のため二軒屋の勢見に遷宮せられたことは広く人の知るところである。
祭神の大己貴命は古来、農林漁業の神、勝負の神、医術の神として崇められている。
秋の例祭は十月十日。 境内由緒書き より

創祀年代は不詳。1875年(明治8年)までは杉尾大明神と呼ばれ、素盞嗚尊が祭神であったという説がある。元暦元年(1184年)3月10日に源義経が屋島へ向かう途中に参拝したと伝わる。
ウィキペディア より

参道入口

鳥居と神額

参道

参道入口近くの浪速、阿波ヴァージョンか。拡大写真はこちら。
(万延元年(1860)庚申9月9日建立)

参道

最後の石段

境内入口

境内入口、異相の狛犬。拡大写真はこちら。
(文化5年(1808)戊辰正月吉祥日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿

本殿両側の木製神殿狛犬

末社

松熊大明神