天石門別八倉比賣(あめのいわとわけやくらひめ)神社

徳島市国府町西矢野531 (平成25年1月7日)

東経134度28分03.36秒、北緯34度03分08.89秒に鎮座。

この神社は、JR徳島線・府中駅の南西2km程の辺り、阿波史跡公園の中、杉尾山の頂上近くの前方後円墳上に鎮座しております。又、十二社詣りの一社でもあります。

御祭神 大日孁女命(別名天照大神)

御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)三月三日正一位となる。

御神紋 抱き柏
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜116米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(山頂海抜212米)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、 余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより2500年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永二年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも
柿本人麿(萬葉集収録)

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然では ない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736〜41)まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。
境内由緒書き より

境内より700m程東、参道入口の一の鳥居。

注連柱と二の鳥居

神額

参道

三の鳥居

石段の参道

境内

昭和生まれの出雲狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和31年(1956)正月吉日建立)

拝殿

拝殿前の出雲狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

本殿


稲荷社