御所神社

美馬郡つるぎ町貞光字吉良 (平成29年12月23日)

東経134度04分42.23秒、北緯33度59分25.84秒に鎮座。

この神社は、つるぎ町役場の南5km程の辺り、吉良の街外れ山沿いに鎮座しております。

御祭神 天日鷲命

由緒
天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣(しらにぎて)を作り神々と共に祈られ、天岩戸開きに大きな功績をあげられた。その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢献していったのである。阿波忌部氏は、古語拾遺によると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に下り、穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し、代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した。このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には、官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり、四国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた。また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和2年(969)には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一字に福をつけて忌部別当一八坊とした。円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である。当神社は、中世以降の兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が不明となったため、社地の論争の原因となった。明治政府が発足し、祭政一致の制を復し神社を国家の宗祀としたため、明治4年(1871)、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治7年12月、麻植郡山崎村が社地とされたが、明治14年1月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ、祭典が行われた。しかし、論争が続くなか、明治18年11月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更され、吉良の旧跡は摂社として、そのまま保存すべしとされた。今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、200メートルの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである。
境内由緒書き より。

神社入口

神額

拝殿

拝殿内部

本殿