豊国(とよくに)神社

小松島市中郷町豊ノ本4 (平成25年1月6日)

東経134度34分34.95秒、北緯34度00分33.21秒に鎮座。

この神社は、JR牟岐線・中田駅の東北東500m程の辺り、中郷の街中に鎮座しております。

当神社の由来と歴史
蜂須賀家政公が太閤秀吉を景幕(敬慕?)し慶長19年(桃山時代1614)8月16日中田千代の松原北方(現在の千代校西奥林64)に豊國大明神の神号を以って壮びな社殿を建立し、そもそも秀吉が薨ずるとき片桐且元を枕許に呼び、己が死後三の像を家政親子に預けよと遺言し木造を習、慶長4年(1599)且元を通じて秀頼から賜ったのである。此の年中田に移し奉祝したのである。同時に附近に別当寺として豊林寺を開山させ、京都高尾の竜嚴上人を迎えて社領300石をあたえたのち、徳川の治世の下幕府をおそれて日吉大明神と改め豊林寺をも廃寺とした。蜂須賀四代光隆(第4代は蜂須賀綱通、光隆は第3代)に至っては、彖慶年間(?)日吉大明神の社殿をも取り壊し神体及棟札等を中郷村庄屋久助に託したのち、近隣の宝蔵寺(現堀越寺)に保管されるに至ったのである。寛政6年(1794)中郷現在地に豊國神社として社殿が再建されたのでありますが、其の間377年を経過し、永年の風雨にさらされ老朽化は誠に拝視するに忍びがたく5,6年前より神社總代会等に於いて数回に及ぶ社殿改築問題について取り組んで参りましたが・・・・・・・・
境内由緒書き より

蜂須賀家政は隠居後に中田村に豊林寺とともに豊臣秀吉を祀った豊国神社を慶長19年に建立したが、豊臣政権から徳川政権への以降過程で、承応年間には社殿が壊され、神体・棟札などが宝永4年に宝蔵寺(現在の堀越寺)へ移された。
ウィキペディア より

蜂須賀家第3代光隆により取り壊された社殿を明治になり、村民の手によって再建されたようです。

神社全景。左手は堀越寺。

鳥居と神額

境内

昭和の出雲構え
(昭和55年(1980)9月吉日建立)

社号標
蜂須賀家政は太閤秀吉を景慕し慶長19年(1614)千代の松原西北に壮麗な神殿を造営して祀る。のち
徳川氏を憚り、殿宇をことごとく取り壊し寛政6年(1794)この地に遷宮した。   (神像は市指定文化財)

拝殿

屋根上の飛び狛

拝殿内部

神馬

本殿


末社の覆屋

式内社・御縣神社(宮方神社) 住吉神社
瑜伽神社 加藤清正神社

旧豊国神社礎石