四宮神社

阿南市津乃峰町長浜 (平成25年1月6日)

東経134度39分32.85秒、北緯33度53分07.61秒に鎮座。

この神社は、JR牟岐線・阿波橘駅の東500m程の辺り、打樋川河口の北側、津乃峰の街中、僅かな緑に囲まれ、境内には土俵も築かれ、街中にしては長閑な雰囲気の中に鎮座しております。

記由緒
慕しく推みるに當地の産土の神、四宮神社と崇敬し奉るは四宮加賀守典一右ヱ門様の御霊を祀り奉る。御宮にして加賀守は元亀天正時代勝瑞城主三好長治の臣下にして元来水師として南海面に活動したりし撫養城主なり(3500石)。
天正5年(1577)長曽我部元親阿波の国に攻入るや、主君三好長治公救援の為め、兵船を出して別宮にて敵勢17,8名を四角八方に切捨てたりしが加賀守は額の右眉の上を負傷し弟左近と共に先づは林アに帰りたり。其後一族とともに生国播磨国龍野に兵乱を避けて龍野にて興一右ヱ門と改名仕る。其後時の至れるを待つ程に播磨国龍野城主蜂須賀正勝公愈阿波国に封じられるや従来りて一族と共に撫養を経て津乃峰山の中腹陣が丸にて7日の断食をしたり。其の後眼下の海辺を一族と共に開拓の鋤を下す。
或る日未だ薄暗き早朝、海辺へ出て見ればオギャーオギャーと赤子の泣く声しきりに聞こえたれど、人影はなく翌日も赤子の泣く声聞こえたり。ふと見ると波打際に一つの石を発見せり。此の石を拾ひ上げれば不思議にも赤子の泣き声ピタリとやみたり。依って此の名石を山の上に社床(殿?)を建て塩竈神社をお祀りしたりとの申伝へなり。
其の後加賀守は藩の重臣で當地の領主長谷川越前様に浜築立の儀願上れば越前様御満足にて望の儀あらば望次第相かなうべきにとお聞下されしが、私の身上には何の望も御座なく、只陣が丸のこの坂あらん限り諸事御役御赦免の上八間四方の土地を下され其処に墓仕立旨願ひ上奏る(現四宮神社地)願通り御聞き下され八間四方の土地は興一右ヱ門相果て候ば後神と祝ひ社床建てる可此の旨子孫に申次ぎ置たり。其の後浜築立成就の上越前様より御自筆の御判物を賜る。時に寛永13年(1636)正月8日也。
長浜の塩田なりて加賀守の世間居を祝して許されて長浜と号せり。要するに加賀守は阿南開発の基礎を確立し、人々と共に安堵安住し又京洛山陽の文化を移入し以て国土の安穏と住民の幸福をはかりし功績を認められたのである。
(注)本社は又四宮加賀守共に弐代加賀守興一右ヱ門様の合祀と思う。
境内由緒書き より

全景

鳥居 神額

拝殿

惚けた感じが微笑ましい阿波狛犬。拡大写真はこちら。
(慶応2年(1866)丙寅3月吉日建立)

拝殿内部

本殿覆屋 本殿
参道狛犬ですが、今は覆屋の中に居られます。拡大写真はこちら。
(年代不明)

社日