羽浦(はのうら)神社

阿南市羽ノ浦町中庄千田池32 (平成25年1月6日)

東経134度37分56.77秒、北緯33度57分41.43秒に鎮座。

この神社は、JR牟岐線・羽ノ浦駅の北東1km程の辺り、観音山という小さな山の麓に鎮座しております。又、神社の東側には嘗ての別当寺であった挙正寺があります。

羽浦神社由緒略記
鎮座地 徳島県那賀郡羽ノ浦町大字中庄字千田池三十二番地
當社は、明治43年7月15日内務省神社局及び徳島県の訓令により村内の奉斎せられし左記23社40柱をこの地に鎮座の村社八幡神社に合祀し社名を羽浦神社と改称。羽ノ浦の里の総氏神として奉祀せられ昭和12年6月30日郷社に昇格現在に至る。
茲に於てまず八幡神社の縁起について記する。創立年代不詳といえども古書及び社伝を見るに、天正年間阿波國主蜂須賀家政公、國内平穏家運長久御鷹狩安全祈願のため、當社に参拝。挙正寺をして八幡宮(後八幡神社と称す)の別當職たらしめ、當社の社殿を再建す。又慶長8年國主蜂須賀至鎮公御成りの砌、蜂須賀家代々の祈願所に指定、下って萬治元年蜂須賀光隆公家運長久御鷹狩安全の祈願を斎行せられ、山上に 鎮座せし、社殿を現在地に建立。その折當社の社紋を鷹羽の打ち違えを用いるべき旨仰せられ、爾来國主領主の祈願所とせらること久し。
次に合祀せられし神社の内、特筆すべきは宮倉字背戸田に鎮座の式内社和耶神社(第56代清和天皇貞観8年従五位上に叙せられる)で ある。式内社とは今より約1800年前第60代醍醐天皇の御宇延喜式の神名帳に登載せられし神社をいい、由緒等最も古く、當時の古社であり朝廷を始め國家よりの尊崇頗る篤く阿波國で50座。年毎の祈年祭に國司の奉幣にあづかりし名社である。和耶神社は式内社那賀郡七座の内の一座に数えられ、更に大日本史及び社伝に和耶神社祭禮「毎歳立春前一日村民集社前追儺行事畢三唱神號謂之和耶和耶神事社名因茲夜不眠云々」とあり、節分の日村民相集まり各自の厄除災難除祈願の追儺神事が盛大に斎行せられし事が明記され、御祭神は諸厄諸災難除の守護神とされている。
以上が當社の略記であるが、時代の推移にともない神社の御祭神及び由緒等不明の人々が多くなるを憂い、このたび有志諸賢の発起と橋本氏の篤志により本碑を建立し、氏子崇敬者 江湖に資するものである。
境内由緒書き より

延々と続く参道

一の鳥居と神額

参道。境内後が観音山。

境内入口

正面

二の鳥居と神額。なんと狛犬が三対!
最前列、厳つい浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(文久2年(1862)壬戌建立)
二列目の出雲狛犬。拡大写真はこちら。
(明治41年(1908)旧正月吉日建立)
奥側の惚けた浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(文化9年(1812)8月吉日建立)

最後の石段

石段左右の阿波型狛犬。拡大写真はこちら。
(文政9年(1826)丙戌8月吉日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿