神倉神社

栃木市藤岡町蛭沼 (平成18年2月5日)

東経139度42分45.09秒、北緯36度16分48.48秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
この神社は、藤岡乙女線を乙女方面に向かい、左に少し入った蛭沼地区にあります。寛政6年の狛犬が迎えてくれました。200年以上経っていますが、状態は上々だと思いました。

 この神社は孝謙天皇とのスキャンダルで下野国の(現・栃木県)薬師寺別当に左遷され、ここで没した僧・弓削道鏡を、この地に送り届けたあとここに住み着いた、衛士(えじ)を祭っているということです。祭神名は水速女命。
 因みに、同名社で名高いのは熊野速玉大社の飛地境内摂社の神倉神社ですが、そちらの御祭神は、神武天皇が熊野から北上して大和に侵入することを目指した時、現在は石上神宮にある「佐士布都神」という横刀を建御雷神から預かり、神武天皇にお渡しした高倉下命です。

神倉神社の由緒
當神社の御祭神は水速女命と傳えられるも文献に依れば「人皇第四十八代稱徳天皇ノ御宇景雲元年末十一月十五日ニ紀州熊野大権現中嶽ヨリ之ヲ遷ス」とあり尚御霊代は龍造大権現國津生八蛇姫尊と記録せらる。御拝殿は文化年間の建造と傳へられ年経て破損せるに依り明治四拾年五月拾五日上棟式を挙げ改築さられたり。
元當部落民は字神倉の西南部に居住せるものの如くなるも人口の増加と水害の為め高地を求めて西へ西へと發展し自然神社のみ取残されたる形態となる。為めに氏子崇敬者協議の上前境内地字神倉二三九番地の一より現地に移轉改築なし昭和二拾八年旧三月拾五日に遷宮祭を執行す。
神倉神社祢宜永島初太郎敬白  境内由緒書より。

神社全景

寛政6年(1794)生まれの、尾付きから尾立ちへの移行期に造られたような、中途半端な感じの尾を持つ狛犬。とても良い保存状態です。何とも変わった感じの顔つきで、頭上には浅い大きな穴が開いているようです。拡大写真はこちら。

(寛政6年(1794)正月吉日建立)

拝殿

本殿

『ヨッシーの神社豆辞典』
 今回はこの神社の御祭神となった衛士(えじ)について調べてみました。
衛士とは…
 宮中の警衛にあたる兵士のことです。中国においては古くから衛士の制があり,唐の府兵制でも地方の折衝府から都城を守る十二衛に番上した兵士を衛士と称しました。
 古代日本の律令制では軍防令・宮衛令に衛士についての規定があります。中央の軍備には五衛府があり,衛士はそのうち衛門府・左右衛士府に配属され,兵衛(ひょうえ)などとならんで朝廷軍の中核を構成しました。衛門府の衛士は諸門の警備にあたり,左右衛士府の衛士は宮城・京中の警備を担当しました。彼らは諸国軍の兵士で,交替で京に上り勤務しました。いわば地方出身の農民兵でした。その人数はときによって変動しましたが,1,600人程度だったようです。
 衛士になると課役が免じられましたが,上京中は厳しい監督下に置かれました。令制では上番期間を1年としていたのですが,逃亡が相次ぎ,その弱体さが明らかになってきたため,朝廷は兵衛・舎人(とねり)などに武力の比重を移し,平安時代にはしだいに雑役に駆使される存在になっていきました。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)