雀神社

佐野市高橋町(平成17年12月9日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
この神社は、渡良瀬川と旗川の合流点近くにあります。昭和生まれの狛犬が迎えてくれました。阿形は顎の部分が欠けています。神社の裏には、使われなくなってしまった御輿が置いてありました。
ここ高橋町は、江戸時代末期、幕府の要職をいくつも歴任した小栗上野介の領地でした。小栗家といえば、群馬県権田村が有名ですが、領地としては、ここ高橋村の石高が最も多かったそうです。

この神社は佐野藤岡ICから国道50号線で西に進み、高橋町信号で223号線に入り南に向かいます。渡良瀬川の手前を右折し土堤ずたいに50号線の下を潜ると右手に鎮座しています。
由緒沿革によると、御祭神は人皇10代崇神天皇の御子・豊城入彦命で嘉暦3年(1328)に奉斎建立されました。この豊城入彦命については下記にてどうぞ。

神社遠景 拝殿
昭和8年の狛犬としてはとても出来の良い狛犬ですが、惜しいことに阿の下顎が無くなっています。
顔が笑っているようで、毛の流れが美しく、全体のバランスも調和がとれています。
(昭和8年11月5日建立)
本殿 境内社・二社
末社 とても古そうな御神輿です

『ヨッシーの神社豆辞典』
豊城入彦命とはどんな方
東国を平定し、上毛野氏や下毛野氏の祖となったいう豊城入彦命は、第10代崇神天皇の第1皇子です。
第1皇子でありながら、異母弟の活目尊(いくめのみこと・後の垂仁天皇)に皇位を譲り、大和から遠く離れた東国へやってきた理由を日本書紀は以下のように語っています。
 「父である崇神天皇は豊城入彦命と活目尊の二人の息子のうちどちらを皇嗣とするか夢占いをさせた。その結果、弟を後継者とし、兄を東国統治の任に当らせることとした。」と。
 けれどこの事は、天皇の長子である皇子に皇位継承の代わりに、東国の統治者としての権威と名誉を与えたというようなわけではありません。この時代、天皇は大和全域を支配下に置いたものの、まだ日本全域を掌握しておらず、東国も当然まだ「まつろわぬ人々」が住む地であったのです。
豊城入彦命の父・崇神天皇は大和全域の支配権を確立し、余勢を駆って日本全域を支配下に収めるべく、四道将軍を任命し、平定行動を開始したとされています。 崇神天皇が10代天皇とされながらも、「初めて国を治めた天皇」と呼ばれるのは、この所以で、ちなみにこの時代に「斎宮」も始まり、豊城入彦命の同母妹である豊鍬入姫命が初代斎宮となっています。やっと国家としての体勢が整いつつあった時代のようです。
 四道将軍による全国平定というのは、大彦命を北陸に、武淳川別命を東海に、吉備津彦命を西海に、丹波道主命を丹波に遣わし、従わない者を討伐するように命じたというもので、この中でもっとも有名なのが、吉備津彦命で「桃太郎の鬼退治」として語り継がれています。討たれた土着の勢力は渡来系だったと言われ、その容貌などから「鬼」に例えられたようです。彼らが築いた山城は「鬼の城(きのじょう)」と呼ばれ、城跡は現在も岡山県の山中に残っています。
 そんな国家平定の一環として、豊城入彦命は東国行きを命じられたわけで、戦の最中に命を落とすかもしれず、その地を獲らなければ帰還することもかなわない辛い役目を帯びての道行きだったのです。何か日本武尊(やまとたけるのみこと)の人生と豊城入彦命の人生にオーバーラップするものがあります。豊城入彦命も結局、日本武尊と同様、ついに都に帰ることなく、東国の地に没したといいます。
 豊城入彦命の記憶は今も毛野の地に残っており、前橋市総社の二子山古墳や大室の二子古墳、新治郡八郷町の丸山古墳などがその奥津城として語り継がれ、赤城神社を初めとして様々な神社で祭神として奉られています。
(『よろパラ 〜文学歴史の10〜 萬葉人物列伝』より)