愛宕神社

佐野市田沼町(平成17年11月2日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
今日(11月12日)から、立冬の第二候、「地始凍(ちはじめてこる)」と本に書いてあります。昨晩からの雨も上がりました。午後からは、晴れてくるというので、ちょっぴり嬉しいです。
この神社は、愛宕山公園の中にありました。「いやー、まいった」長ーい石段です。息を切らしてやっと登りきることが出来ました。膝がガクガクです。300段以上はありました。狛犬さんは、居なかったです。吃驚したのは、庚申塔です。何故、山の上に、こんなにたくさん有るのでしょうか。集会でもあったのでしょうか。それと、目に入った庚申塔の年号が、安政7年、万延元年となっていました。この年が「庚申」だったから建立も多かっのでしょうか。

この神社は東武佐野線・田沼駅の北約1.4km、総合運動場やプールがあり市民に親しまれている、愛宕山公園から長い階段をあがった小丘陵の上に鎮座しています。創建は鎌倉時代。佐野市の伝説に『当時の唐沢城主・佐野成俊が白竜たんという池で、池の主、白竜神に会いました。 その池は、日照りが続いても絶対に渇かず、毎日田んぼに水を引いてもなくならないという不思議な池で、人の暮らしを支えていました。成俊は、白竜神に今後も村民を守ってくれるようお願いしました。すると、白竜神は自分を権現としてまつるよう命じました。成俊は、さっそく愛宕山に社を祀りました。その後、村では子どもが、池に落ちても傷ひとつもなかったといいます。』という話が残っています。(佐野市の民話伝説参照)現在の御祭神と「庚申」については下記にてどうぞ。

『ヨッシーの神社豆辞典』
●庚申とは?
庚申とは干支(えと) 即ち、庚(かのえ)申(さる)の日を意味します。庚申の日とは、甲、乙、丙、丁…の十干と、子、丑、寅、卯…の十二支の組み合わせを日付にあてはめたもので、60日に一度巡ってきます。中国の道教によれば、人の身体には頭、内臓、下半身に一匹ずつの蟲(三尸・さんし)が住んでいるといわれています。この蟲たちは普段から、身体の中で悪さをして病気の原因になったりしているのですが、それだけでなく、庚申の日の夜には身体を出て天に昇り、その宿主の悪い行いを、寿命を司る神である天帝に告げ口しに行き、その結果として天帝は悪いことをした人の寿命を縮めると考えられていました。ところが、三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申の日の夜は一晩中起きていて、三尸が身体から出て行かないよう見張っていればいいではないかと考えました。これを庚申講、又は庚申待ち、といいます。この庚申講は平安時代に中国から伝わり、江戸時代には各地で隆盛を極め、今でも全国いたるところに「庚申塔」、「庚申塚」と呼ばれる石塔や社が残っています。この庚申講の行事にはさまざまなことを行って徹夜していましたが、青面金剛はこの三尸の虫を食べてしまうので、いつの頃からか、庚申講では、この青面金剛を本尊として拝むようになり、庚申イコール青面金剛となりました。また、この日、睡眠をささげて、一晩一心に願い続ければ如何なる願いも叶うとされていました。
●庚申信仰と三猿(さんえん)
庚申塔には三猿が欠かせないものになっていますが、もとはまったく別のものでした。三猿は古代インドで生まれ、東南アジア・中国に広まり、やがて日本に入って、鎌倉時代以降に絵画や彫刻の題材になったとのことです。
三猿が庚申信仰や庚申塔に結びつくのはもっと後のことです。室町時代に、山王(日吉神社)信仰と庚申信仰の対象として共に北斗七星があったところから両者が結びついたとする説があります。やがて室町時代の末期に山王の使者である猿が庚申信仰に取り入れられたというのです。したがって、初期の庚申塔にあらわれた猿は三猿ではなく、一匹や二匹で、目・耳・口をふさいだものではなかったそうです。そして江戸時代、17世紀中ごろに庚申塔に三猿が現れました。庚申の夜に天帝に悪事を告げるといわれる三尸との兼ね合いで「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が結びついたというものです。(鎌倉シチズンネット、東京-古神道より)
●万延元年と庚申塔
万延元年は、丁度庚申の年にあたり、徳川幕府の井伊直弼大老が水戸浪士たちに江戸城の桜田門外で暗殺されたり、黒船来航により長い鎖国の夢を破られた年です。日本国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものでした。このような状況だったので、自然神仏に頼ろうとした心理と、万延元年が庚申年に当たった事が重なり、多くの庚申塔が造立されたものと思われます。(埼玉県深谷市教育委員会HPより)

神社入り口

300段以上も階段を登った
上にある境内と拝殿

御祭神

拝殿内から見える本殿正面

本殿、脇から

裏山の庚申塔。本当にたくさんの庚申塔が建立されています。安政7年は歴史的には存在しませんが、万延元年と同じ年です。この年は丁度庚申の年にあたり、全国的にたくさんの庚申塔が造られました。

この千庚申塔は、一塔で千塔を建てたと同じことと言われています。