浅田神社

佐野市馬門町(平成17年9月28日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
この神社は、界小学校のすぐ近くにあります。入口の石碑や鳥居にある名称と違うのですが(鳥居の文字は天命総社と書いてあるように思うのです)浅田神社と呼ばれています。狛犬は、寛政7年の文字が見えました。

この神社は東北自動車道・佐野ICの南西約1.8km、界小学校のすぐ南に鎮座しています。地図でも地元の呼称でも「浅田神社」とありますが、クマちゃん通信員の云うとおり、鳥居の扁額と社号標には「下毛野國 天命総社」とあります。どういう事かと色々調べましたが結局徒労に終わりました。前に千葉で、総社や一宮はその時代時代の神社の隆盛により変わる、と聞いているので、この神社もある時期にはここ下毛野國で国司が参拝するほどの隆盛を誇っていたのかもしれません。今でも瓦葺きとはなっていますが素晴らしい彫刻の本殿と、私にとっては何より嬉しい寛政生まれの狛犬さんが住んでいます。

(寛政7年(1795)卯正月建立)

狛犬の拡大写真はこちらで

ヨッシーのQ&A。今回は総社について調べてみました
 総社は惣社とも呼ばれていました。
 日本では7世紀後期(飛鳥時代後期)からはじめられた大宝の律令制により、都から遣わされた国司が国を治めていました。今でいうと県の知事さんに相当します。
 昔の政治は「マツリゴト」と言われるようにまず神様をお祭りする事から始まりした。ですから就任早々まずいちいち地域の神社を参拝しなければなりません(国司巡拝)。また毎月1日には必ず同じように全てを回らなければならないのです(朔幣)。
 国司も始めの頃は律儀に回っていましたが平安時代に入った頃から、国府の近くにお社を1つ設けてそのお社に管内全て の神様をお祀りするようになりました。そうして、このお宮を「総べての神様をお祭りするお宮」という意味で「総社」と名づけました。平安末期までにはこの総社が全国的に広がりました。
 しかし、源頼朝が平家を滅ぼし文治元年(1185年) 諸国に守護・地頭を置いた頃から律令制は徐々に崩壊し応仁文明の乱(応仁元年・1467年〜) に至る時には全くその機能は麻痺。したがって官幣社であるべきはずの総社宮も衰微の極に達し、その後は氏神様として地域の信仰を集めていたようです。(岡山市教育委員会 備前国総社宮より参照)

神社入り口

下毛野國 天命総社社号標

拝殿

彫刻の素晴らしい流れ造りの本殿

この狛犬の尻尾も後ろがスパッと切れています。佐野市戸室町の鞍掛神社と同じタイプです。こちらの方が柔らかみがありますが年代的にも近いのでこのころの流行でしょうか?同じ石工さんの作品なのでしょうか?阿は宝珠、吽は髷角を付けています。この子達の前脚はどうしたのでしょうか、自分の目で見たのではないのでよく分かりませんが、付け替えられているように見えます。ブーちゃんですが、好きなタイプです。

豪放な素戔嗚命の大蛇退治の彫刻